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株式会社成長戦略研究所 代表取締役 小橋健一

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時間&費用対効果の高い Intelligent Hack Method

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代表メッセージ

以下は、営利法人の代表者メッセージでありながら、長文の私的論考をインターネット上で掲載しています。 昨今の日本経済社会に対する問題意識を、私とあなたとで共有する為、私が記述して来た論考群からの「一部抜粋」です。 あくまで「抜粋」ですので段落ごとの文脈が整合していない箇所も御座います。 本論考は上から順に、

「柵檻観念の話」 「自明懐疑の話」 「知恵知識の話」 「自己啓発の話」 「拝金主義の話」 「客観認識の話」 「経済観念の話」 「未踏領域の話」 「愚民政策の話」 「過去経緯の話」 「予定調和の話」 「弱肉強食の話」 「特権階級の話」 「国家機能の話」 「命がけの這い上がりとライフハックの話」 「自己責任の話」 「共同幻想の話」 「実存主義の話」 「資金調達の話」 「現状問題の話」 「寄附文化の話」 「日本凋落の話」 「世界潮流の話」 「将来構想の話」 をして参ります。

本論考の全容については、秘匿性の高い内容も御座いますので、弊社と契約をされたお客様、又はパートナー様に限り、お伝えしております。 勿論、長文を書けば書くほど諸処の論点に対し、批判を受け易くなるという事は覚悟の上で、恥やプライドなんてものは投げ捨てて、 現代日本を生きる私たちが考えるべき本質的な論点を綴っています。

本論考では真剣な話をしています。現実の直視・構図構造の把握、人生の意味・逆境の克服・事業者の成長・個人の成長・目的の達成・将来日本の在り方、 といった重い話について、御興味の無い方は、本ウェブサイトを閉じて頂いた方が、宜しいかと思います。




そこまでして本論考を書き記した動機ですが、みんなが自分の私事や私権や営利や傘下や保身や保全ばかりを意識するだけでは、 社会は殺伐としたものになるだけで、一向に社会は良くならないでしょう?即ち、現状みんな「自分を守りたい守りたい」と思っている訳ですよ。

いきなり初っ端から、言論界の核心を突く様な質問をしますが、 あなたは自分が一番可愛い小利口な人ですか?それとも、あなたは勇気と覚悟のある人ですか?もっと本質的に言えば、 あなたは「黒いものを白い」と言う人間(cagy/coward)ですか?それとも、あなたは「黒いものを黒い」と言える人間(brave)ですか?

嘗て16世紀の欧州に於いて「お金が賽銭箱の中に投げ入れられた時の、"チャリーン"という音がすると共に、 あなたの魂は救われます。(^人^)(ヌレテニアワワ)」と下々の人々に説き、贖宥状や免罪符(Indulgence)を、有料で販売しまくっていたカトリックキリスト教会の門扉に、

「九十五ヶ条の論題」と銘打った大きな紙を貼り出し、北欧・英国・ベネルクスに於けるプロテスタントの流れに火を付けたマルティン・ルターの様な人物は、 何時の時代でも社会をより良いものにして行く為に大切な存在である。と私は考えます。 従い、最後までお読み頂ければ幸甚ですが、読むも読まぬもあなたの自己啓発意欲次第です。

本メッセージは、あなたの人生を変え、今の日本社会を変える程のインパクトが、可能性として幾分か有るかもしれません。誰にも未来を予言する事はできませんが、 こうして時間を掛けて全力で書き上げたメッセージが、日本社会を少しでも良い方向へと変えられる可能性は、無きにしも非ずです。

但し、このサイバー空間という場で、成長戦略研究所が贈る本メッセージの全てを読まれた場合、 少なくとも、「あなた御自身が、より賢明な存在になれるという事」「あなた御自身の未来が、変わる可能性があるという事」は確実である。という点については、心からお約束させて頂きます。

この冒頭で予め、本論考への批判に対する反駁を申し上げて置きますが、 例えば、カトリック側に居る人間が、いくらルターの「九十五ヶ条の論題」を批判したとしても、 例えば、天動説側に居る人間が、いくらガリレオ・ガリレイの地動説を批判したとしても、 それと同様、例えば、誰か頭の凝り固まった人間が、いくら私の論考を批判したとしても、

いずれも主張者自身(私)がする言論の客観的な存在自体や存在価値は、何ら変わる所では無いのですよ? どれだけの沢山の人間が、どれだけ沢山の批判をしようと、あくまでそれは相対的な振幅に過ぎない話であって、その主張された(記述された)言論内容(テキスト)そのものは、絶対的に同一不変のままである訳です。

言い換えれば、小橋のする話なんて、「嘘っぱちだ!」「嘘八百だ!」「出鱈目だ!」「ガセだ!」「似非だ!」「詐欺だ!」「ペテンだ!」「まやかしだ!」「馬鹿だ!」「阿呆だ!」「クズだ!」「インチキだ!」と言って、 執拗に批判をする人間が何と言おうと、私がする言論内容そのもの(主張自体)は、絶対的に変わりはしないのですよ?という事です。

英語圏には、”A fool laughs when others laugh.”、”Monkey see monkey do.” といった諺があり、私たちの国にも、付和雷同・唯唯諾諾・軽挙妄動、といった諺があります。 私たちは、「地球が太陽の周りを回っている」と、主張したガリレオ・ガリレイに対し、その主張の真偽を精査するも事なく、 安易に嘲笑する「fool」や、その「fool」に安易に同調する「monkey」になってはならない。と私は考えます。

故に、重要な事は言論内容そのもの(主張自体)に対する精査や、十分に深謀遠慮した末の判断であって、決して同調圧力だけで主張内容の是非を、安易に判断しては絶対に駄目だ。という事です。 言い換えれば、私たちにとっては、是々非々な在り方が重要なのであって、ならば「あなた御自身はどう判断されるのですか?」という事です。

もっと言えば、あなたは自分自身で物事の是非(善悪・正邪・理非・可否・好悪・良し悪し)を、判断できる勇気がある人(brave)ですか?或いは、あなたは周囲が物事の是非(善悪・正邪・理非・可否・好悪・良し悪し)を、判断するまで待って、 その多数派となる空気や風潮に合わせて、ただ単に同調するだけの人(cagy/coward)ですか?という事です。因みに、私自身は後者の姑息で卑怯な在り方というものが嫌いです。

さて、どうして「今の日本社会を変える程のインパクトが、」なんて言う大言壮語ができるかと言えば、Amazonや書店といった世の表側に流通される新聞や本や書籍というものは、著作者・ゴーストライター・ イラストレーター・編集者・ファン・ライバル・出版社・印刷社・卸業者・書店・同業者団体(協会・組合)・それら法人の株主(資本拠出者)、そして、それらの家族親戚、

といった新聞ビジネス・出版ビジネス・マスコミビジネスに関わっているステークホルダーである人々、といった利害関係者の存在までをも考慮する必要がある為、 どちらかと言えば、万人受けを図った様な「ポジティブでホワイトで三方よしの綺麗事」を書き、発信せざるを得なくなるからです。そんな柵檻が私個人には無いからです。

合理的に考えて、情報発信に利害関係者が多く絡めば絡む程、より多くのバイアスやマニピュレーションが施される様になります。 つまり、複数の意見から共通で取り出せる最大の類似点、或いは、対立する陣営で共に妥協可能な落とし所、としての「最大公約数」を担保できる言論の内容に傾斜し易くなります。

しかしながら、「ポジティブでホワイトで三方よしの綺麗事」なんていうものは、 「世の真理や世の真実を認識しよう。」という内面の態度では断じて、あ・り・ま・せ・ん!!!この認識が極めて重要である。と私は考えます。

「ポジティブでホワイトで三方よしの綺麗事」によって、世の道理を説明しようとする態度は、 (1)超デリシャスな旨味ある何らかのルアーインセンティブに釣られている。 或いは、(2)私事や私権や営利や傘下や保身や保全といった自己中心主義(エゴイズム)を最優先している。

或いは、(3)被洗脳教育や被情報操作や被観念支配によって、客観に妥当しない何らかの観念バイアス(ポジティブでホワイトで三方よしの綺麗事・ 隠蔽された悪意ある人々によって、脳味噌を洗脳され馬鹿にされ切った残念な思考回路)に傾斜している。

この三者の内、いずれかであるという事です。 何故ならば、地球という惑星に於ける地表世界の仕組みは、個体別(物質生命別)に意識が存在しているからです。 例えば、個々の個体を超えた共同的な存在主体間で、テレパシー的に思考思念が通じ合い、みんなの意識がリアルタイムに共有されている訳では決してありません。

即ち、個体別に意識があるという事は、その誰しもが当個体最優先となっている訳ですから、 本質的に個体間(私人間・法人間・私人法人間・国権民権間)相互の関係性は、「食うか食われるか?」「やるかやられるか?」「嵌めるか嵌められるか?」「目には目を歯には歯を」

といった、身も蓋もない弱肉強食の原理こそが、根底に於いて成り立っている。という事になります。 (因みに、この場では哲学的な唯我論や独我論については、そもそもの主題が異なるテーマ違い・カテゴリ違いという意味でナンセンスである為、 その学問的判断を留保します。ただどちらかと言えば、私自身は唯我論や独我論については否定的です。)

地球という惑星に於ける地表世界に棲む、物質生命間(個体間)の根底に於いて成り立っている原理原則が、弱肉強食であるならば、 「ポジティブでホワイトで三方よしの綺麗事」によって、世の道理を説明する事は絶対にできません。

「ポジティブでホワイトで三方よしの綺麗事」は、基本的に狡猾で老獪でズル賢い虚妄です。即ち、恰も真理や真実の様にしか見え無い、 流麗な衣で完全完璧に装飾された虚妄を語り、虚妄を信じさせる事によって、人様(私たち市民)を馬鹿にしているのだ。という事です。

合理性から判断すれば、「(人間界を含む)生物界の本質は、弱肉強食・適者生存・優勝劣敗。人間界の本質は、自己中心主義(egoism)と拝金主義(Mammon)を、 世界体制維持の為に利用した、途轍も無く汚い一部特権階級(mafia)による多段階層的牧羊犬制(multi layered sheep dog system)。」

極東アジアに列島として置かれた現代ヤマトの國の本質は、変形君主制(Deformed Monarchy)を、 巨大既得権益(established huge interest)を保存する為の「隠れ蓑(国体)」として活用した、隠蔽貴族制(Hidden Aristocracy)。 そして、それ故の性悪説的な現実解釈が必須である。という認識が妥当です。

この客観的妥当性を担保し得る性悪説的な現実解釈こそ、そして尚且つ、ドイツ寓話ハーメルン化を辿る蒙き自己中心主義(エゴイズム)を、 白い目で睨み付ける営為こそ、私たち市民のチカラ(自由・権利・独立性)を、大きく向上させるのである。という事です。

喩えれば、世間の表向きに流通している嵌め込み騙し情報群の数々によって、平生の私たちは美しい夢や麗しい幻想を見せられ続けている結果、 私たちの脳味噌はポジティブホワイトキレイワールドに埋没する虜へと、恍惚的にノックアウトさせられているだけなのである。という事です。


「現状そういう事だったのか。。」「たった一回しかない貴重な人生を、無駄にしなくて済んだわ。。マジで有難う。」 「こんな世の中の真実を実名を出してまで、本当の事を語ってくれる奴なんか、今まで居なかったな。」 「もう何処かの誰かに、与えられた見方で生きる事は止めて、自分自身が地力で考え抜いた考えで、俺(アタシ)の人生を生き抜くわ。」

「これから俺(アタシ)は地力で何かを言う。これから俺(アタシ)は地力で何かをやる。」「とことん器量を大きくして、日本を引っ張れる位の大物や傑物になってやるわ。」 「できる事ってのは、みんなが一人ひとり独立した自由意志を使って考え抜いて、そして心の底から痛切に感じるに至った、何らかの行動を起こすしかないんだ。」「このままじゃ暗い日本の将来を、俺(アタシ)が何とかしなきゃ。」

「同時に今、立ち上がって日本の将来を何とかしてくれる志ある人を、どんどん増やして行かなきゃいけないじゃん!」 「みんなが不幸になる道は一刻も早く止めて、みんなが幸せになる道を選ばさなきゃ、明日の日本が駄目になるじゃん!」 「この上なく愛している俺(アタシ)の街や地元や地域が、このままじゃ駄目になるじゃん!」

「どんだけ嘲笑されても中傷されても罵倒されても、一切お前には関係ない訳ね。」 「わかった。じゃあ絶対お前は負けずに頑張れよ!」「そして頼むから、お前が言う一大プロジェクトとやらを、絶対に成功させてくれ!good luck!」 と感じて頂ければ、本望極まりないと言いますか、心から幸いこの上ありません。

しかしながら、「なんじゃこのポッと出のこいつは?鬱陶しいな!」「この馬鹿野郎が無駄口をホザきやがって!」「人間はエゴな生き物が当り前だろ!」 「ワシさえ良けりゃそれで良いだろ?」「何が自己啓発じゃ。」「何が公益じゃ。どうせ偽善だろ?」「キモ男はシカトじゃシカト!」「弱小無名の単独ソロなんて、みんなで叩いてまえ!( ゚д゚) 、。(カーペッ)」

等と受け止められれば、心から悲しいと言いますか、みんなみんな不幸へ至る末路この上ありません。そうなりますと、日本に未来は無いなと感じます。 ならば未来の私たちは国際競争にボロ負けして、諸外国にとっての実質的な下僕や奴隷にでも成り下がりますか?

私たちの國の先人が訓戒として残してくれた諺にも「無知の知」「良薬口に苦し忠言耳に逆らう」「金言耳に逆らう」「苦言は薬なり、甘言は病なり」 「薬の灸は身に熱く、毒な酒は甘い」 「忠言は耳に逆らえども行いに利あり」「薬酒口に苦うして病に利あり」「苦い薬は泣いても飲め」「若い時の苦労は買ってでもせよ」 「獅子の子落とし」「可愛い子には旅をさせよ」という風に、類義の諺を挙げれば枚挙に暇がありません。

昔を生きた先人は、世の常として破滅に至る愚人が、如何なる発想や反応をし易いか?という事を、何百年も前から既に悟っていた。という訳です。 ならば馬鹿馬鹿しくも、判り切った前轍を踏みますか?その滑稽さに気付け無い方こそ、本メッセージを精緻に読んで、あなたの知性やメタ認知の俯瞰的次元を、高めなければならないのです。

ピーター・ドラッカーが指摘した通り、現代という時代は知識社会に突入しています。知性やメタ認知の俯瞰的次元が低いという事は、 そのままイコール凋落や敗北や滅亡に繋がって仕舞う。即ち、市民が有する知性の有無によって、その生き死にが決まって仕舞う。という厳しい世界に私たちは生きている。という事です。

だから経済発展の元となる効率化は別として、個々人に厳しい自助努力をさせまいとする思想、別の言い方をすれば、個々人を怠けさせ愉悦や快楽や遊戯に耽させ、それに依存させようとする思想というものは、 得てして客観的な環境認識を誤らせる類の、ドス黒い悪意によって企図された危ういものである。という事です。

その一方、批正や手厳しい意見というものは、極めて貴重で大切な有り難いものである。もっと言えば、批正や手厳しい意見の実践というものは、 「沈黙は金」という押し黙った在り方の対極であって、それらを対外へ発する為に(疎まれたり嫌われたり叩かれたりする)覚悟と勇気を伴うものである。という事です。

まぁそんな訳で、それくらいの両極端に振れる可能性がある程、私はこの場で本質的なお話をします。 何故ならば、より本質的なお話をする程、人によっては耳触りや聴き心地が芳しく無く、受け手の賢愚によって反応が両極端に振れて仕舞うからです。

自助努力・他力本願・私利私欲・私権拡張・欲望充足・不平不満・社会正義・勧善懲悪・公平公正・理不尽・不条理・高邁深淵・理想主義・権謀術数・ 勝利敗北・生殺与奪・敗者復活・一発逆転・奮闘物語・人事葛藤・遮二無二・一心不乱・弱肉強食・適者生存・ヒロイズム・ビルドゥングスロマンといった、

人間界の生々しい本質をまざまざと直視しようとする認識の在り方は、 閉塞感・不当性・旧態依然・非効率の蔓延っている旧来社会体制(アンシャンレジーム)を、より良いものへと変えていく上で、絶対的に必要なものである。と私は考えます。

何故ならば、私たちは「人間だもの!」。困難や苦境や障害にブチ当って藻掻き足掻き、それを必死になって乗り越えようとする、 私たちの社会を構成している個々人の強い感情こそが、世の中の暗い側面を変えて行くんです。

こうした個々人が持つ強い気持ち(志)以外に、草の根レベルから社会を大きく変化させられるドライブがあるでしょうか? 如何なる時代・如何なる社会に於いてであれ、私たち個々人に心の内から湧きい出る強い気持ち(志)がある限り、社会にダイナミズムが無くなる事はありません。

逆に言えば、日和見や他人事や事勿れや御満悦や草食系や御花畑や小市民は、如何せん無力である。という事です。 こうした在り方を喩えるならば、人類が連綿として築いて来たギフトとも言える遺産に乗っかったお客様(guest)、或いは、人畜無害な愛玩動物(pet)といった所です。

この理由として、日和見や他人事や事勿れや御満悦や草食系や御花畑や小市民は、現前する構図や構造の問題点を客観視した上で、社会的な問題点を自らの手で変えようとはしないからです。 即ち、各個人の在り方が、人類の遺産に乗っかった「お客様(guest)」や「愛玩動物(pet)」なのか、或いは、そうで無いのかは、各個人による認識と行動の如何に依ります。

不自由な観念の縄によって縛られ、利己化・矮小化・隷属化されて仕舞っている私たち市民に必要なものは、現代という時代そのもの、 そして現代という時代に蔓延っている空気や水の様な観念、それらを相対化し客観視し、誰もが自由と独立とを手に入れる。という事です。

ここで言う自由と独立とは、経済的自由や経済的独立よりもアプリオリな関係にある「精神の自由」「精神の独立」です。
ここで言う不自由な観念とは、何処か別の世界や別の次元にある話ではありません。私たち個々人の心の中にある話です。

こうして今、私たちが持っている自分自身でも気付いていない規範意識・与えられた基準や規則・教え込まれた道徳・ 時代の風潮・同調圧力・しがらみ・メンタルブロック・お高く留まったプライド・隠忍自重・自粛意識・自発謹慎・謙遜謙譲・羞恥心・忌憚・遠慮・柵檻といった、 私たちの心の中にある、己を小さく小さくしようとするものです。私たちの心の中にある、己が縛られよう縛られようとするものです。


これら不自由な観念によって、私たちは、「自分なんか大した事ない。」「こんなの恥ずかしい。」「これはやると不味い。」 「そんな事できるわけない。」「一人だけみっともないし。」「それもちょっとヤバくて無理。」「あれは場の空気的にやっちゃ駄目だ。」「そんなの俺のプライドが許さないし。」

「あれやるの気持ち的に無理だわ」「豆腐メンタルだし。ムズい。」 「このやり方じゃなきゃ、できない。」「教えられた通りにやるしかないの。」「上から言われた事だけやってりゃ良い。」「だって、そうしないと悪く思われるかもじゃん。」

「とりあえず現状維持してりゃいい。」「今ある地位を傷つけるの無理。」 「もしこれを自分の判断でやったら、周りから色々と言われるし。」「それはやりたいけど、もしやってみて怒られたらどうするんだ?」「もし上手く行かなかったら、誰がその責任を取るわけ?」

「仕方ないじゃん。どうしようも無いもん。」「やれること他に無いし。」「そんなサクサク名案やアイデアなんて思い付かないよ。」 「あれは面白そうだけど、人当たりが芳しくないっぽい。」「やっぱ世間体が良くないと無理。」「だって怖いんだもん。」「新しい事やると何が起こるか分からないから動けないよ。」

「このアイデアは確かに凄いけど、もしネットで炎上やバッシングされたらどうするの?」「出る杭になると打たれるよ。」「とりまリスキーはやめとけ。」といった、 か弱き羊の群れとも言える蒙き状況に、しばしば陥りがちです。そして、私たちが本来的に持っている、

「こうしたい。」「ああなりたい。」「それは好きだ。」「あれは嫌いだ。」 「これは面白い。」「あんなの面白くない。」「これは一刻も早く広めたい。」「これは一刻も早く止めたい。」「こんな素晴らしい事は今すぐやりたい。」「あんな下らない糞みたいな事は絶対にやりたくない。」

「みんなが幸せになる道(最大多数の最大幸福)を歩ませたい。」「みんなが不幸になる道なんて絶対に止めさせたい。」といった自由な心の在り方と、それに基づく行動にブレーキが掛かって仕舞います。

私たち個々人の自由な行動を抑え込んでいる、気付く事のない潜在意識である不自由な観念によって、 私たちには自発的な行動規制が掛かり、私たちの心は硬い硬い縄でがんじがらめに縛られ、私たちの体は小さな小さな檻に入れられ、 最終的に私たちは、自由に考える事や自由に動く事ができなくなります。

そしてそうなると、考え方が蒙い奴・主体的に考えて動けない奴・何もできない奴・使えない奴・木偶の坊、つまり、「独創性ある付加価値や新規市場を、自ら生み出せないチープな存在」に成り下がって仕舞います。

故に、「そんな硬い硬い縄や、小さな小さな檻なんてものは、なるべく早く取っ払おうぜ!」「そもそも俺たちヤマトの國には、自縄自縛の愚なんか要らねえんだ!」 「但し、お互いの自由は尊重し合おう!己の欲せざる所は人に施すこと勿れ。」だ!という事を、ここで私は強く主張します。

たとえ自己啓発書が鬼の様に溢れ返っている、現代日本という先進国家に生まれたとしても、或いは、今よりもっと科学文明の進んだ未来の日本に生まれたとしても、 こうした不自由な観念に縛られる事によって、私たちは時代や地域を問わず、何時でも何処でも、上記で示した類型と同じ様な、蒙い状況に直面し得る存在です。

故に、どれほど時代が進んでいるからといって、時代や科学技術の発展に連動して、私たち市民の精神性までが都合良く啓かれる。という訳では、決して無いのです。


その理由として、例えば、人付き合い・世渡り・事業・運営・開発・仕事・調整・勤続・シノギ・放浪・漂泊・渡航・学問・研究・教育・監督・世話・読書・啓発・職務・出世・修行・苦難・瞑想・思索、

といった諸処の活動による経験を、何年も積んだヒトトシ取った人間が、こないだ学校を出たばかりの若者を見れば、 世を知らない・見ている世界が狭い・発想が乏しい、即ち「蒙い」と感じるでしょう。

勿論それは当たり前です。 そしてもし、その若者が既に知っている狭い世界は、何らの試練を受ける必要も無く、何らの認識を改める必要も無く、楽で居心地が良い。ぬるま湯から出たくない。 と固執して、大人になっても一向に、広い世界へ目を向けようとしなかったら、外の世界へ出ようとしなかったら、その若者の未来はどうなるでしょう?

両者を比較した場合、古い時代を生きたヒトトシ取った人間よりも、より新しい時代を生きる若者の方が、より「蒙い」人生を送って仕舞う。という事になります。よね? 故に、啓発や啓蒙という社会的課題は、必ずしも市民の人心が、時代の新旧に比例して進歩する。という性質のものではありません。

寧ろ、世の人心の賢愚は、その時代の為政者や社会体制や風潮時流に依る所が大きい。と私は考えます。
だから、私たち個々人が自ら努めて啓発を行い、蒙い不自由な観念を乗り越えるという事、即ち私たち個々人が自発的に内面を成長させる。という事は、時代や地域を超えた普遍的な問題なのです。

「いやいやいや。このオイラだけは全然蒙くなんてなっては居ないよ。」という方、 本当にそうでしょうか?ならば、願ったり望んだり期したり欲したりした事は、どんどん実現して行っていますか? 反対に、憂いたり悲しんだり否定したり反対したり止めさせたかったりした事は、どんどん無くなって行っていますか?



私は学生時代より哲学的な思索を人生の愉しみとする者で、基本的に本論考は、現状考察する者の殆ど存在しない論点群についての究明を試みるものです。 人類の先端を知る泉は、究明する事に時間と心血とを注ぐリサーチャーの好奇心です。人類を動かす泉は、啓蒙する事に愛と情熱とを注ぐエバンジェリストの勇気です。

もし本論考によって、あなたに何らかの気付きがあり、本論考に対して幾分かでもポジティブな心象や評価を感じて頂けましたら、どうかあなたのお知り合いにも、あなたを介してお伝えください。

この理由は、この社会からシンクスモール(視野狭窄)やシンクニア(近視眼的)を打ち消し、できる限り、シンクビッグ・シンクヒュージ(視野壮大)を望もうとする態度を是とすれば、世の中は素晴らしく良い方へ変わる。 故に、沢山の方々にアンチシンクスモール(反視野狭窄)やアンチシンクニア(反近視眼的)を伝える必要がある。と私が考えているからです。

これまで年単位の時間を注いで思案し、この度こうして長文を記述しました手前、もし本論考から何らかの気付き得る点があれば、どうかシェアされてください。 仮に何か得をするものを分け与えて貰ったら、そのお返しとして与える。という事が、人倫を成り立たせているギブアンドテイクという大原則です。

逆に、ギブアンドテイク無き人というものは、感謝無き人(エゴイズム・自己中心主義・利己主義・唯我独尊)である。という事を意味します。 そして感謝無き人こそが、この世の中(人心)を蒙いものにしているのである!という事だと、今の私には断言できます。

更に言えば、もっと最悪なのは、 仮に何か得をするものを分け与えて貰ったとしても、それを感謝の対極にある「(意図的)迷惑・害悪・汚毒・報復」で返す。という暗愚で卑劣な在り方です。これは俗に言う「恩を仇で返す」という行為です。

こうした最悪な行為をする人間(下衆悪人)が世に増えて仕舞えば、合理的に考えて、私たちの社会は、ドンドン悪い方向へと向かうだけである。と私は強く断言します。 何故ならば、他者(相手)にとっての「善因"悪"果」となるからです。

この構図は言ってみれば、下衆悪人が「悪の逃げ得」や「加害のやり得」となるケース、即ち、下衆悪人にとっての「悪因"善"果」と同じ、腹立たしい程に不当性の著しい類型です。 ここで用いている「善」という語の意味は「ポジティブ(positive)」、「悪」という語の意味は、「ネガティブ(negative)」、といった所でしょうか。

つまり、譲渡(受領)と受領(譲渡)の等価交換が成り立っていない。アウトプット(インプット)とインプット(アウトプット)の間でイコール(イーブン)の関係が成り立っていない。という事です。 こうした主体間に於ける、片務的で一方的な状況が、私たちの社会に於ける不当性の本質である。と私は認識しています。

故に、こうした最凶最悪な人間の在り方(下衆悪人・エゴイズム・自己中心主義・利己主義・唯我独尊)を、私たちの社会からガンガン減らす必要がある。 と私は考えます。
よって、何卒どうかご理解の程を、宜しくお願いを致します。m(_ _)m

例えば、有名な人・地位ある人・成功した人・金持ちな人・偉い人・権威ある人・権力ある人、等に対し、ゴロニャ~ンと擦り寄って、スリスリと揉み手をし、ニコニコと愛想をし、 ハイソウデスネサスガスバラシイゴモットモデスと媚びを売って、ヘコヘコと迎合して、ニヤニヤと美味い汁を吸って、 シメシメとほくそ笑んで、ドヤァと得意げな顔をして、ミテミテ!ウラヤマシイ?ドオスゴイ?デショー?モットミテミテ!と見せびらかす。

即ち、金欲・物欲・食欲・肉欲・名誉欲・自己顕示欲・社会承認欲といった私利私欲を、一般人の何倍何十倍何百倍何千倍と思う存分に満たし、 小さな共同体世界の中で、お山の大将として悦に入っている在り方(人類が連綿として築いて来た遺産に乗っかったお客様)として、 その主である現行体制から飼われた牧羊犬(sheep dog)として、「ワンワン!ハッハッ!」と尻尾を振る愛玩動物(pet)をやって居る方が、遥かに楽な行為である。という事です。

但し、こうした楽な在り方こそが、要するに「自分が一番可愛い」「自分さえ良ければ」・エゴイズム・自己中心主義・利己主義・唯我独尊・感謝無き人、と、ガチンコイコールであって、

己のエゴを充足させる事以外には、意識(視野・志向性)の及ばない在り方であって、社会や公共や、その他大勢の人々が直面している事(切実問題)については、 一切の関心や思慮を向けない在り方であって、即ち、世の中を蒙いものにしている最たる元凶である。諸悪の根源である。

己自身が何処までも飽きる事なく私利私欲を追求し、尚且つ、周囲に居る人々に対してまでも、同じ様に私利私欲の追求を、駆り立て・焚き付け・布教し・喧伝し・扇動し・挑発し・刺激し・籠絡し、 をするだけの「自己中牧羊犬」である。換言すれば、「エゴイズム伝道者」である。
という事を、私たちは常に肝に銘じておく必要があります。

尚、但し書きを付け加える事になりますが、しかしながら、たとえエゴ(個的自我・各人自我)こそが諸悪の根源である。とは雖も、誰しも一個体の生物であり、一個人の人間である以上、一定のエゴ(個的自我)は絶対的に必須です。 もし仮に、一個体(一個人)からエゴ(個的自我・各人自我)が消失して仕舞えば、必然的に周囲に居る、他の生物や人間の餌食となって、瞬く間に貪り食われて仕舞う。という事になります。

これは必然的に貪り食われると断言できます。!!!二十代の若い時分、素直で正直で性善説で博愛主義だった私は、この事を何度も身を以て体験しました。
そして、下衆悪人によって貪り食われた後の、心身共にボロボロとなった惨憺たる状況で、何年も何年も苦悩・苦悶・苦闘・苦節を重ねる事となりました。

故に、エゴイズム・自己中心主義・利己主義、といった在り方(思想信条)の是非(善悪・正邪・理非・可否・好悪・良し悪し)については、 その強弱・大小・多寡・高低・方角・方向性といった「程度問題」や「性状問題」によって判断される。という事です。

これを分かり易く言えば、個人レベル及び法人レベルに於ける「思慮分別」「深謀遠慮」「是々非々」「先見の明」「中庸の徳」 「過ぎたるは及ばざるが如し」「哲人政治」「共存共栄」「最大多数の最大幸福」といった理念の体現如何によって、社会的に判断される。という事です。

従って、自由権・社会権・私有財産制が保障された資本主義自由市場経済を根底とする、現代の人類世界で生きている限り、 一定のエゴ(個的自我)は必要不可欠なものとして、肯定的に積極的に認めて行けば良いのです。私利私欲は適度に満たせば良いのです。

一定のエゴ(個的自我・各人自我)を肯定しようとず、逆に、自粛や草食や矮小や逃避や隠遁や厭世や出家といった在り方へと向かって仕舞えば、 個人も社会も国家もその畢竟は、必然的に生存競争(サバイバル)に敗北して仕舞う。そして畢竟は、滅茶苦茶に不利で弱い立場へと置かれて仕舞う
という事に成る訳ですから。

そもそも、この地球上地表という世界に70億の人間が存在し、私たち個々が持っている価値観の「何が正しくて何が正しく無いか?」については、 そこに置かれている誰しもが比較や検討や思案をして、物事や事象を相対的に判断せざるを得ない。

という事は、私たち一人一人が傾斜し・採用し・行為し・積み上げている在り方(思想信条)の是非(善悪・正邪・理非・可否・好悪・良し悪し)については、 その究極は、その強弱・大小・多寡・高低・方角・方向性といった「程度問題」や「性状問題」によって判断される。!!!という事です。「大事なことなので二回言いました。(ゝ┰・)ゞ」

そして、畢竟は衆目傍目に存在している価値判断主体全体(各個々人が持つ心証を総合した集合意識)の強弱・大小・多寡・高低・方角・方向性によって判断される。!!!という事です。!!! これを一言で表せば、(誘導的マスコミの独りよがりでは無い、草の根レベルに於ける市民によって集合集約的に感じられている)世論といった所でしょうか。

さて、先ずは一つ滑稽な話をしますが、例えば、よく日本人にありがちな在り方として、「有名な人・地位ある人・成功した人・金持ちな人・ 偉い人・権威ある人・権力ある人、がする話ならば、耳を傾けてやる。話を聞いてやる。著書に目を通してやる。講演に出席してやる。

しかし、それ以外の一般人がする話や論考は、そいつが何処の馬の骨か分からないので、そもそも聞くに値しない。」といった精神的態度が、日本の国という大局的な見地から見て、如何に危うく、如何に愚かで、 如何に大多数の人々(私たち市民)にとっての自業自得となるのか?
という事について指摘してみたいと思います。

上記の様な人々の在り方は権威主義(authoritarianism)と呼ばれるものですが、 権威主義は学問的には、専制独裁(dictatorship)・選民思想(elitism)・全体主義(Totalitarianism)・帝国主義(imperialism)といった、市民の自由やチカラを奪う、旧態依然とした在り方と相通ずる考え方です。

権威主義・専制独裁・選民思想・全体主義・帝国主義といった考え方を端的に言えば、ヒュージピラミッドスキーム(Huge Pyramid Scheme)であり、 このスキームを管理監督誘導(manage/guide)している者が、牧羊犬(Sheep Dog)である。という事です。

権利・権力・地位・金欲(拝金主義・金銭崇拝・カネ万能主義)・物欲・食欲・肉欲・名誉欲といった、あらゆる類の私欲充足(エゴ充足) を目的とするルアーインセンティブに釣られている牧羊犬の群れが、何段階も何段階も多重層レイヤー的に存在している。という事です。

そして、この社会を形成する牧羊犬の群れ、及び、その下に置かれた羊達の群れ(flock of sheep)に於いて、 精神的支柱を成している観念=宗教教義(dogma/doctrine)が、自己中心主義=エゴイズム(egoism)の至上と礼讃である。という事です。


ヒュージピラミッドスキームに於けるポジショニングとして、有名な人・地位ある人・成功した人・金持ちな人・偉い人・権威ある人・権力ある人、 とは、一言で言えば、「既に持てる側にいる人」或いは、「既に頂上へと昇っている人」という事です。

勿論いくつかの例外も有ると思いますが、基本的に「既に持てる側にいる人」は、築いている帝国(empire)や王国(kingdom)やビジネススキーム(business scheme)の保守保全(メンテ)や拡大拡張(ヒヤク)を図ろうとする訳ですから、 日本人の大半が、その国民性として権威主義的であり続ける限り、日本の世の中にまかり通るオピニオンは、「既に持てる側にいる人」が発するポジショントーク(position talk)で溢れ返る。という構図に至る訳です。

その一方、喘いだり困ったり悩んだり苦しんだりしている大多数を構成するミドル・ボトム・ベースといったポジションに置かれている、汲々とした生活を営んでいる巷間市井の人々(マスボリューム層)が発するオピニオン群は、 恰も構造的に封殺されているかの如く、ボトムアップ的に表の言論空間へは出て来づらい。という状況になっています。

故に結局は、「既に持てる側に居る人」の話しか耳を傾けない。という内面の態度は、日本の大多数を構成するミドル・ボトム・ベースといったポジションに置かれている、 私自身を含めた下々に居る人々(マスボリューム層)にとっては、自ら自分の首を締めているのと同じ(自業自得)なのです。

これほど判り易い構図であるにも関わらず、日本人の国民性が権威主義から脱皮できない理由は、昔々に「既に持てる側に居た人」が考案した、 私たちの生活の中に空気の如く溶け込んでいる観念群(concepts)によって、まんまと鴨られているだけで、 それに気づき乗り越えようとするだけの知性(intelligence)を、大多数を構成している人々(マスボリューム層)が勝ち得ないからです。


この滑稽さというか馬鹿馬鹿しさに気が付いて仕舞えば、取り敢えずもう権威主義は、ハーメルンの笛吹き男(The Pied Piper of Hamelin)に出てくるネズミの大群、或いは、か弱き子供たちの群れ如く、 笛吹き男に引き連れられた一大群となって、私たちはドブ川へと突き落とされて溺死する愚へと至る可能性があるので、絶対に止めておこう。という事になるかと思います。

この点、どうして権威主義が国内に蔓延るかと言えば、広い世界を知る事に疎い、即ち知っている世界の狭い従順な市民層ばかりが、手足を使わされヘトヘトになる割の合わない仕事に従事したり、 トバッチリを食らう割の合わない立場に置かれ続けたり、割の合わない事にボーッとさせられたまま膨大な時間を奪われたり、 する様な、マスボリューム層を疲弊させる仕組みに社会がなっているからです。即ち、世(世界・地球)の広きを知らないからこそ、そうした徒労に忍従できて仕舞う訳です。

しかし、どれだけ割が合わなかろうが、どれだけ立場が辛苦に満ちていようが、知っている世界の狭い従順な市民層にとっては、現状を疑う事も他国と比較する事も、殆ど有り得ないという訳です。となると、 現状についての相対的な良し悪しを断ずる、独自の判断基準を各人が持っていなければ、権威主義が蔓延るのは必至です。故に、私たち一人一人が世(世界・地球)の広きを知らない、ブラインド状態(blind)だからこその権威主義です。

逆に言えば、様々な現行制度が立ち行かなくなっている現状があるにも関わらず、知っている世界の狭い従順な市民層の割合が依然として、市民の大多数を占めている状態のままであれば、 現行制度(社会体制)に盲従する人々は減らず、何処までも私たちの社会は、閉塞感(cooped-up)に包まれた殺伐とした状態(savage)で在り続ける。
という事です。そして盲従する人々はいずれ、童話ハーメルン的な不幸な末路を迎えて仕舞います。

それに加えて、私を含めた下々の人々は日々の生活に汲々としていて、一時体験として文化に触れたり、 読書や思索に励む余裕ある時間(余暇)を確保する事が、非常に難しいからです。また、もし仮に、ニート的な立場の人が、十分な余暇を確保できているとしても、 しんどい思いをする克己や成長や啓発を旨とし、頭に汗をかいて学問や教養や知性を、内在化させるという事が難しいからです。

そうした自発的な克己・成長・内在化の出来る人物は、イチ早くニートプータロー状態から抜け出して、 「既に持てる側に居る人」の方角へとシフトチェンジして仕舞い、畢竟「既に持てる側に居る人」と成り得た自己自身を美化したり、偶像化したり、神格化したり、カリスマ化したり、

しかも更に、「この世はお金持ちの天下だ。お金持ちは貴族で天上人だ。お金持ちは凄い。お金持ちは偉い。お金持ちは正しい。お金持ちは美しい。お金持ちは幸せだ。お金持ちに誤りは無い。 貧乏人は糞だ。貧乏人は愚かだ。貧乏人は考え方が誤っている。貧乏なのは全て自己責任だ。貧乏人はお金持ちの下僕や奴隷だ。」といった、偏向的なポジショントークを、半ば必然的に始めて仕舞う。という訳です。


但し、こうした私権私財の有無によって人々が分断される構図は、昔々に「既に持てる側に居た人」の掌上で、人々が離反するよう"仕組まれた罠"なのである。 人々が上下や左右といった立場に固執して、互いに反目してくれている限り、社会構成員全体が一丸となって連帯する(unite)連帯される(united)という可能性は無くなる訳ですから。

そうしておけば、ドス黒い悪意に満ちたヒュージピラミッドスキームが、一挙に瓦解する(collapse)という可能性は無くなる訳ですから、昔々にスキーム構築をした側としては安牌である訳です。 だから「既に持てる側にいる人」も「持たざる側にいる人々」も、この「仕組まれた罠」として与えられている「(誰かにとっての)漁夫の”利”的な構図」に気付かなくてはならない。
と私は考えます。

この上下二極(左右二極)の両方が御都合的な自己正当化をし、(民主主義の美名に託つけて)磁石のN極(S極)とN極(S極)の如く歩み寄らない。 という踊らされた「漁夫の”損”的な構図」(自滅的構図)が、殆ど世に気付かれない理由は、 「拝金主義や反知性主義に毒されていない、声をあげるだけの勇気ある(持たざる)自由な有閑知識層」のボリュームが、余りにも世の寡少であるからです。

換言すれば、「既に持てる側にいる人」が染まって居やすい拝金主義(≒イージー主義)を相対化し、「持たざる側にいる人々」が染まって居やすい反知性主義(≒イージー主義)を相対化した上で、 「持たざる側にいる人々」の切なる叫び声や喘ぎ声を、論理や知性で武装しつつ、世間に向かって代弁しよう!とする勇気と気概ある人間の数が、世に殆ど居ないから
です。

この理由としては、何かに秀でた優れた人・知性や徳性や品性や人脈のある人・諸処のリソースを多く持つ人・競争力の高い人・高い実績がある人、といった社会的強者と関わる方が、言うまでも無く誰にとっても遥かに得であり、 その対極を行く、「持たざる側にいる人々」を引き上げようとしたり、手取り足取り助けようとしたりするインセンティブが、経済的合理性としては成り立ち難いからです。

従って、大多数を構成するピラミッドの中段以下にいる人々を、今よりもハッピーにする事で、私たちの社会全体をより良いものにしようとするならば、 「持たざる側にいる人々」を引き上げ、助けようとするソーシャルなインセンティブを、私たち一人一人が己の価値観の内から自発的に見出す必要がある。

それをしない限り、私たちの社会は何時まで経っても、格差貧困や無知蒙昧やエゴイズムや自己中牧羊犬や、その結果として現出する、深刻な閉塞感に包まれた殺伐とした状態で在り続けるだろう。と私は考えます。

このまま少子高齢化による経済衰退と格差貧困の放置放任をすれば、今後より大多数の人々から余暇と知性と意志とが奪われ、日本は更なる負のスパイラルへと突き進み、泥沼へ嵌まる事になる。と私は考えます。

つまり、今の日本で日々進行している人口・経済・市場のシュリンケージ、そして反知性主義や拝金主義、 尚且つ、それらの根底に存在するイージー主義(※存在・正義・意味・本質・共同体・複雑性・関係性等に対する哲学的思索からの逃避)( リベラルアーツや教養主義の退廃・自由意志の捨象・思考停止・判断停止)の台頭は、諸外国に対する隷属化への道である。と断言します。

おそらくは諸外国の日本弱体化策によって、数十年前から仕組まれた対日戦略が奏功した結果でしょうが、物事の本質を総括的にひっくるめて言えば、 何事もイージーカムイージーゴーであって、イージー主義はそれに染まった人間や社会や国家そのものを、脆弱化・蒙昧化・傲慢化する。そして、その反対も然り。という事でしょう。



現代日本に於いて拝金主義と反知性主義が蔓延っているという事は、榊原英資氏が指摘している通りですが、 自己中心主義(egoism)と相性抜群である拝金主義(mammon)を本質的に言えば、「お金が大好き。お金は全能の神様。自分自身の自由・自分自身の権利・自分自身の権力が最も大切。 自分さえお金があればそれで良い。自分さえ恵まれていて幸せならばそれで良い。自分さえ良ければそれで良い。」といった思想であるので、

拝金主義が蔓延った場合、世の中には「自分さえ良ければ」という人間で、溢れ返って仕舞うという状況に至ります。当に現代日本そのものですね。 他方、日本に於ける反知性主義を一言で言えば、エリートへのルサンチマンやアンチテーゼであると同時に、 カワイージー・ウマイージー・オモシロイージー・キレイージー・キモチイージー・タノシイージー、を追求する安楽で軽薄な思想の一形態であるとも言えます。

即ち、拝金主義及び反知性主義は、努力・根性・研鑽・陶冶・自己啓発といった厳しい精神性とは、対極を為す様な在り方だと思います。 故に、拝金主義及び反知性主義、この両者を包括するイージー主義は、主義(ism)や思想(thought)であるというよりも、 先ず以って、その存在そのものに気付かない、空気や水の様なもの。即ち思潮、又は、風潮と表現する方が適切だと思います。

そして現代日本を生きる個々人が理想としている、拝金主義と反知性主義をミックスした在り方というものは、 出来るだけ楽をして、気持ちよくお金持ちになって、そのイージーに得られたお金を使って、自分さえ好き勝手が自由にできてハッピーならば、それで良い。誰か文句でもあるの?

しかも、そうした自分がお金持ちになった状況を、下々でお金が無いと喘いで居る大多数者が、心から羨んだり心から尊敬してくれたりすれば、尚好ましい。
といったものです。 従って、猫も杓子も「カネ儲けカネ儲け!( ゚∀゚)o彡」「この御カネ見て見て!($∀$)」「あの現ナマ美味しそ~!(¥∀¥)」「カネは命よりも大切だから!(エッヘン)」と叫び、 市民全体がトコトン金儲けに血眼になって邁進している。という在り方が、現代日本の置かれている状況です。

但し、私たちは御カネや貨幣経済を丸ごと否定した、原始的で土人的な生活へと回帰するという事は、常識的に考えて不可能に近い。と言える訳ですから、 仮にもし極一部が、そんな原始的生活を始めたとしても多勢に無勢で、今ある社会問題や経済問題や国際問題の構図構造が変わる訳でも無く、何ら意味の有る行為とは、考えられません。

故に、私たちは貨幣経済や資本主義から抜け出す事はできず、寧ろガツガツとした積極的な経済活動を肯定し、 そこから生まれる効用や便益や福利を享受しつつ、生き馬の目を抜く国際的な経済競争にも負けまい!と国を揚げて奮闘し、 貨幣経済や資本主義の良し悪しを客観視しながら、それらの悪い点については積極的に是正をして行く必要がある。と私は考えます。

嘗てあった修正資本主義の様な発想です。 この点、若年者ほど自明性を相対化する眼や、一見するとトランスペアレントな権威権力階層構造を批判する眼を持てない為、若年者にとって、この拝金主義と反知性主義という観念は、 まるで空気や水の様な疑うまでも無い、余りにも自明なものになって仕舞っています。

私たちはこうした状況に危うさを感じなくて良いのでしょうか? 大切な事は、たとえ空気や水の様な存在となっている自明性でさえ、方法的に懐疑しつつ、絶えずそれらを相対化し、客観視をしようとする自由で独立した意志です。

自明性や思潮風潮や支配的価値観や支配的観念に気付く事なく、何時の間にか絶対化して仕舞うからこそ、私たちは「天皇陛下万歳!」「皇后陛下万歳!」「万歳ダイブで一億総玉砕だ!」と叫びながら、 ドイツ寓話ハーメルン的なドブ川へと、みんな揃って落ちて行く様な、浅はかで蒙い存在と成り下がって仕舞います。


そうした「か弱き羊の群れ」となっている、大多数者が抱く蒙さを構造的に裏支えしているものが、ヒュージピラミッドスキームと自己中牧羊犬である。という訳です。 合理的に考えて、確実に欧米の知識人からは日本人について、極東のヤマト愚民(uninformed ignorant japs in far east asia)である。見做されているでしょう。

私たち日本人は、私利私欲と傍若無人とに塗れたプライベートの極み(私権原理)を追求しようとする一部特権階級が中心となって織り成す、 選民思想・権威主義・全体主義・帝国主義といった観念が、果たしてそんなにも大好きな御国柄なのでしょうか?

また何故に私が拝金主義を批判しているかと言えば、例えばもし、ある一般的な個人が、億単位の大ガネというものを所有した状況になり、尚且つ、その状況を周囲が知ったとします。 すると、億単位の大ガネというものは、個人の現実認識(客観認識)を極めて盲目で、ブラインド的な在り方にさせて仕舞うからです。

そして自己以外の人間を媒介として伝えられる情報内容が、 お世辞・おだて・胡麻すり・おべんちゃら・ご機嫌取り・よいしょよいしょ・媚び諂い・賞賛賛美・過大評価・阿諛・請願・嘆願・陳情、といった心地良い情報ばかりが、耳や目に入って来る事になります。

すると、ある一般的な個人は、自分自身が恰も神様仏様・御殿様・聖人君子・天才賢者・偉人傑人、にでも成ったかの様な、錯覚を生じさせ易くなります。すると、 多岐に渡るあらゆる事柄に於いて、思考や判断の誤りを招き易くなります。

しかも、自分自身の資質や生態に於ける短所・欠点・駄目な部分・体たらくな部分・要改善点、 はたまた自分自身の下衆・醜悪・卑賤・暗愚・矮小・蒙昧といった点についてまで、真っ白の美しい美しいベールで、それらネガティブな要素群を、綺麗さっぱりと覆い隠して仕舞います。


そして、世界がバラ色に見える度数レンズの入った色メガネをかけて、対峙する相手や世の中を見て仕舞う。という状況に陥りがちになるからです。 その一方で、世界の暗い側面、即ち、ミドル・ボトム・ベースに於いて、この今も絶えず起こっている社会問題や、悩み苦しみ困っている人々(窮状・惨状)へは、眼を向け難くなる。という訳です。

何故ならば、最新のコンピューターやインターネットやスマートフォンや金融市場を利用活用できる事で、現代の如く割と容易に、個人が大ガネを掴んで仕舞った場合、 そうした喘いだり藻掻いたり困ったり、といった苦しみを何年も長期間に亘って味わい続ける。という経験をしないからです。故に、容易にカネを掴んだ者は、苦しんでいる者の気持ちに立つという事が、甚だ難しくなるからです。

もっと最悪なのは、自分自身の下衆・醜悪・卑賤・暗愚・矮小・蒙昧といった点についてまで、金銭を全てのエクスキューズとして用い、 「カネさえあれば、何もかも一瞬で綺麗に解決できるもんね。金持ちはマジで無敵だよな。さながら俺様の天下だぜ!(グヘヘヘ)」といった驕り切った状況へと至る事になるからです。

もし仮に、カネさえあれば一瞬で解決、自ら起こした加害責任や争い事の数々は、余りあるカネを使った示談に持ち込み一瞬で解決、とした場合、 たとえ身勝手に不法行為を為しまくり、いくら民事訴訟で敗訴し続けたとしても、金持ちにとっては痛くも痒くも、何らの意味を為さ無い。という事になります。

即ち、実質的には金持ちは超法的に近い存在となる訳です。だから、いくら日本が法の支配と法治主義に基づいた現代国家であるにせよ、 被害弁済の手段が金銭によるものである以上、金持ちによる悪行に対しては、法律による抑止が余り(というか殆ど)意味を為さない。という事になろうかと思います。

しかし、どんな汚い手段であれ、金銭を手元に囲った者が、超法的に近い存在となって仕舞うという状況は、 果たして「法の下の平等」という現行の日本国憲法が掲げる理念に、そぐう在り方でしょうか?その何処が「平等」だと言うのでしょう?その理念と実情とを比べれば、ちゃんちゃら可笑しい話です。

例えば、不法に大金を奪った下衆悪人が、狡猾な手口を用い、その金額の10分の1を弁済する示談でケリを付けて仕舞えば、今ある法制度の仕組み的には、 何事も無かったかの様に(社会正義を遵守しているかの如く・社会正義を全く踏み躙ってはいないかの如く・人倫に於ける道義道徳を全うしているかの如く)許されて仕舞いますよね?

そして残り10分の9は、安々と下衆悪人がその懐へ領得できて仕舞いますよね? 即ち、不法に大金を奪った下衆悪人というものは、努力もせず苦労もせず、相応の対価物や対価役務も提供せず、詐欺や強奪や搾取や恐喝といった不当な犯罪行為によってでさえ、楽々に大金が得られて仕舞う。という訳です。 でも、元々そのカネの源泉(出処)は、奪われた側の人間が、努力と苦労と奮闘をして生み出した経済的価値ですよ?

ここで重要な点は、どれだけ悪辣な手段を用いたにせよ、一旦カネを手元に囲って金持ちとなった人間は、泣かした相手に対して行う示談交渉や刑事告訴回避の為に、高額をはたいて弁護士を雇う事ができる様になります。 すると、目先の高額報酬に張り切った有能な弁護士が下衆悪人を守り庇い助ける為に、必死になって仕事をする活動をする弁護をする。という構図に至ります。

一方、泣かされた被害者は、そもそも刑事告訴(社会的制裁)がしたいのでは無く、只々自分のお金を返して欲しい訳ですから、被害者が経済合理性に立脚していれば、双方の争いは示談へと向かいます。

という事は、国家資格を有する士業というものは、必ずしも社会正義に基いて仕事をする訳では無く、役務報酬(カネ)という食い扶持の有無や、その大小をインセンティブとして仕事をする訳ですから、 一部の士業は時として、著しく社会正義を損ね、世の理不尽や不条理といった不当性を、助長する活動をしまくる事で、この今現在もジャンジャンと潤っている。という事です。

これは本当に本当の事ですよ? 重要な事なので繰り返しますが、一部の士業は、一旦カネを囲って金持ちとなった下衆悪人から良いカネを貰い、 「悪党様様」に尻尾をフリフリと振って、悪に全力で加担する事によって、世の理不尽や不条理といった不当性を助長しまくる事で潤っています。そもそもそんな人は、士業を志した当時の初心に帰るべきでしょう。

そんな人は俗に言う、悪徳弁護士などといった存在です。つまり、まとまった役務報酬という割の良いカネさえ支払ってくれるのならば、士業は下衆悪人(悪党)への助力や護衛や尖兵ともなり得る。という事です。 もっと解りやすく形容すれば、「国家公認資格を保有する事によって、清潔なホワイトさを高らかに標榜しつつ、表側の世界に棲んでいるゴロツキヤクザ」の様なものです。

一応念の為、それ以外の方々について、即ち、真っ当に士業としてクライアントの為に、献身的に働かれておられる方々の名誉の為に申し上げますが、 勿論、真面目な弁護士や士業の方々も数を数え切れない程、沢山いらっしゃいます。人それぞれ千差万別です。そこはどうか履き違えないでください。

そもそも自由主義経済の生態系というものは、そこに棲息するプレーヤー同士が、領域と役割とを分業する事で成り立っている以上、 どんな業界でも個々の事業者が持っているカラーは、棲み分けによって十人十色である。という事は言うまでもありません。


そして、私が何故この近代以降の国家に於ける、実質的な法制度の欠陥についての話をしているかと言えば、何を隠そう、上記の様な醜悪で卑劣極まりない手口によって、 下衆悪人と下衆悪人が雇った弁護士とによって、2007年に公務員を退職した当時、私が苦労して築いた金6千万円以上もの取り分(事業収益)を泣かされたのが「この私」だからです。

因みにその後、上記一発目の大きな被害で負のスパイラルへと突入していた私は、立て続けに金2千万円を、別の下衆悪人に泣かされて終わりました。ORZ  私は「この不当性(理不尽不条理)に満ち満ちた私的体験を、社会的に無駄なものには絶対したく無い。」と思って、それで奮い立って、こうして書き記している次第です。

しかも、汚い手段で大金を手元に囲った下衆悪人というものは、ハイリスクが取れ忠誠を誓うと宣言する子分を、世のボトムやベースから集め、 「この俺様がもっと強大な権力を持つ王様将軍様として天下布武のできるよう(ココロノコエ)、」

「者ども!成果報酬型で良いカネをやるから、国内外の全てを相手にもっと広く、もっとデッカいカネを巻き上げて来いやー!」「者ども!もっと大きな資源金品財物をかっぱらって来いやー!」と言って、 更に世間一般に対し、詐欺や収奪や搾取といった、大規模で集団的な集金活動が実施される場合も多々あります。

そうした集金活動は、その悪辣さや違法性や被害性の程度によって、グレーやブラックや社会悪や巨悪と形容されますが、 その一方で、汚い手段で囲った大金が(打算的下心満載)ホワイトな一般事業活動の原資となる場合も多々あります。 何故ならば、いったんカネに満ち足りた下衆悪人は、その次なる所望として、得てして社会的イメージや社会的地位の向上を図ろうとするからです。

即ちマネーロンダリングの如く、己の為した過去の所業を漂白剤を使って洗濯し、ペンキや修正液を用いてホワイトに塗り替える。という訳です。 そして、汚い手段で囲った大金を一般事業活動に係る関係者各位へ、ふんだんに撒き費やす事によって、後出しロンダリングでさえ最終的に「勝てば官軍」といった体で、

遮二無二えげつない方法で大金を囲っていた、過去のダークイメージ(ダーティーイメージ)は塗り替えられ、過去の所業はカネのチカラによって、 恰も一般人からは綺麗で正義の様にしか見えない、事績や業績(適切には所業)へと正当化されて(justified)仕舞う。という訳です。

こうした道理を総括的に言えば、「古今東西に於いて常にカネ(拝金主義)というものの本質は、一極支配的な自己中心教の擬態である。 コモンセンス(仁義礼智)無き、潜在的万人(potential everybody)による無法アナーキー(anarchy)や、傍若無人(insolence)を容認する手段である。」という事です。

もっと言えば、たとえ今現在に於いて、真っ白なホワイトにしか見えない様な団体や組織にせよ、 私たちの知らない昔々にあった原始資本蓄積段階(Startup Phase)に於いては、大概この様な洗濯洗浄浄化過程(laundering process)を経て来ているのである。という事です。

その意味で言えば、今現在に名を馳せている経済事業者や公的団体の数多くが、実質的には洗濯屋(Laundry)である。という事になります。 故に、この経時的な事業者(業態・様態)の驚くべき変遷過程は、人類の本質や世の中の仕組みを見渡す上で、非常に重要な事である。と私は考えます。


拝金主義の話に戻すと、金持ちも貧乏人も、口から食べて尻から出す二足歩行の言葉を喋る生物という意味では、何ら変わるものではありません。 そして、各個人が持っている人間性そのものの価値・是非・良悪・優劣・理非・長短・浅深・美醜・貴賤といった点は、全く以って金銭以外のモノサシです。

だから、金銭モノサシによって判断してはならない領域や分野や方面は、この世に山ほどあります。 そうした世界にまで金銭モノサシを至上とする拝金主義を持ち込んで、エゴイズムというブランドの靴を履いた汚い足で、お構いなく踏み荒らすという事は、 驕り高ぶった傲慢横柄な精神性による人間存在に対する冒涜である。驕る平家は久しからずである。
と私は考えます。こうした話を私は自身の実体験に基いて主張しています。

ここまで拝金主義の悪辣性を指摘しても、まだその良し悪しについて、「どうもまだ見当が付かない。」と仰られるのであれば、 そこまで言うならば、あなたに問いましょう。今現在に居る、或いは、嘗てあなたの隣人として居た金持ちのどなたかは、あなた自身を富める者にしてくれましたか? あなたと何らかの関係性を持っていた金持ちは、あなたに富の施しを与えてくれましたか?将来の糧となる大きな恵みを与えてくれましたか?という事です。

ここで私は古今東西に於ける世の一般論を語りますが、家系や血筋による相続(贈与)を抜きにして考えれば、 金持ち(持てる者)へと至った者は、その生き様として、その人物自身が私財の蓄積を追求する。という営為に邁進して来たからこそ、 その人物自身の私利私欲の充足を追求する。という営為に邁進して来たからこそ、 今現在に於いて、その人物は金持ちに成る事ができて居るのである。という事です。

ならば、結局の所、エゴイズムと拝金主義とに毒されている人物の懐から、その周囲や近隣(neighborhood)に 住んでいる持たざる者の数々(他者・庶民・市民)が、その人物が持つ富に接近する水準で富める者となるよう、例えば、 漫画アンパンマンが自分の顔を率先的にちぎって(献身的犠牲)、持たざる者の数々に分け与える様な、大いなる施しが為されたり、大いなる恵みを与えてくれたり、 といった事は、基本的に為される事は無いのである。という事に、私たちは気付かなければなりません。

つまり、金持ちという人物像(money holder / wealth holder)の特徴として、基本的に「ワシのもんじゃ。ワシのもんじゃ。」と言って、 「カネを囲う」「欲しいモノを囲う」(enclosure)という事が、最大の機能性(function)である。という事からすれば、 ビル・ゲイツやジェフ・ベゾスといった、いくら撒いてもいくら捨てても、全く以って、痛くも痒くも惜しくない水準(大富豪)へ至る前段階過程、即ち、小金持ちからソコソコの金持ちとなった状態に於いて、

金持ちという存在の本質は、自分自身を富ませようとする事(エゴイズム)に限って、最大の興味関心を持っているのであって、 金持ちが自分自身を置き去りにしてまで、溢れんばかりの自己犠牲的な精神を以って、下々に居る持たざる者の数々を富ませようとする。などと言った話は、 ちゃんちゃらおかしいというか、先ず以って聞いた事がありません。

そもそも、その様な性善説が人類の標準であるならば、 貧富格差や二極化や南北問題といった地球規模の社会問題は、とっくの昔に無くなっている筈でしょう。しかし、現状そうは成っていません。 客観的に認識した場合、「上位1%の富裕層が、全世界の富の半分を独占している」という、現状の在り方は性善説の対極を為している。即ち、世界の主流は性悪説である。と捉えて間違いは無い。という事になろうかと思います。

金持ちが持たざる者の数々と対峙した際、通常為し得る発想(思考回路)というものは、 持たざる者の数々(マスボリューム層)に対し、「損な役回り」「汚れ役」「鴨られ役」「貧乏籤」「骨折り損」を引かせようとして、 利用・搾取・収奪をするといった、如何にその悪意が気付かれぬよう、如何にその悪意が露見せぬよう、 コッソリと持たざる者の数々から諸処のリソース(時間・労働力・信用・割損的役割)を、吸い上げられるか?という事です。

この事を考えれば、拝金主義の特徴(悪辣性)は、首謀者(leader)直下のフォロワー(follower)として、同じ様に拝金主義を信奉しようとする新手(新興)の者を、 ピラミッドの上段中段下段を構成させる牧羊犬として、彼らを仲間(party)に取り込む(子分として匿う)事によって、 仲間に取り込まれた人間、子分として匿われた人間、をピラミッドスキームに係る支配体制を維持管理(保守保全)する為の、警護や守衛や監督や尖兵として活用させている。という点です。

そして、このピラミッドの上段に近づけば近づくほど「自分さえ良ければ」「自分と自分の家族さえ良ければ」 「自分と自分の御友達さえ良ければ」「自分と自分のグループさえ良ければ」「自分の仲良しこよしさえ良ければ」といった、 私力・私権・私財・私利・私欲・私事・私傘下・私集団、に限ってのベネフィットを追求しようとする、動物的発想(egoism/nepotism)が、より強くなる。という事が言えます。

従って、拝金主義≒金銭崇拝≒カネ万能主義≒自己中心主義≒エゴイズム≒縁故主義≒利己主義≒唯我独尊≒専制独裁≒選民思想≒権威主義≒ 全体主義≒帝国主義≒特権階級≒ピラミッドスキーム≒ドス黒い悪意≒階層構造≒牧羊犬≒性悪説≒身勝手≒御都合主義≒洗濯屋≒私権原理≒自己責任原則≒「自分が一番可愛い人」≒「感謝無き人」

といった様に、これらの腐り切った人間の在り方は、ほぼほぼイコールと言って差し支えないほど、強固な鎖状チェーン(chain)によって結び付いている。という事が言えます。



「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」という有名な故事成語が『孫子』に記されていますが、これは即ち、「彼という客観」と「己という主観」とを正しく理解し、 そして、客観を成り立たせている原理原則の方へ主観を近づけようとするならば、戦うと決めた勝負やゲームに於いて負ける事は無い。という教えです。

本論考も含め、本や書物に於いて記述されている優れた良い文章というものは、大抵の場合、読み手がより客観的な外的環境や内的心証に対する認識へと至る事のできる術が、書き手によって記されています。

即ち、優れた良い文章というものは、読み手により良い観念の枠組み(観念構造)を持たせてくれる。という事です。 つまり、より客観的な彼を知らせてくれ、より彼の側へと己を近づけてくれるものだと言えます。だから本来一般に、本や書物や論考や論文というものは、読み手の蒙きを啓こうとするものである訳です。

逆に言えば、より彼の側(客観)から己を遠ざけて仕舞う類のものは、悪い文章(コンテンツ)という事になろうかと思います。 語や諺で言えば、甘言巧言・美辞麗句・巧言令色鮮し仁・愚民政策・阿諛追従・ホルホル・ウットリ・ジャンクメディア・ファンタジー・過大脚色フィクション・教条主義・洗脳宗教・柵檻観念・バイアス・ブラインド、といった所です。

それ故、私自身も昔々は愚かでしたので、書物を読み、人の話を聞き、己の蒙きを啓こうとして来ました。 但し、ショーペンハウエルが指摘した様に、私たちは書物や書き手の思考を追うだけの、盲目で無思考な奴隷となってもいけないのです。常に必ず自由で独立な精神性が必須です。

非ネイティブを合わせた英語圏にいる18億の個人、そして英語圏にある経済事業者は日本よりも遥か先を行っている訳です。どんどん個々人が自由と自己実現とを志向しようとしている現代にあっては、 個々人は自由と自己実現とを勝ち取れる世界(生態系)へと、ヒト・モノ・カネ・そして情報が集まって行く。という構図が成り立っています。

さながら古き国々(アンシャンレジーム)で行き場を失った人々が、新天地での自由と成功とを求めてUSAへと移民して行った時代の様に。
フロンティアでのゼロトゥワンをやろうとするモチベーションの高い者を集める。という戦略を、米国は結果論的に採る事ができたからこそ、今こうして超大国(superpower)として世界に君臨するに至った訳です。

それ以外にも例えば、全国津々浦々の市街地が焼け野原となった、終戦直後から昭和後期の高度経済成長へと日本が飛躍できた理由は、確かに共産主義の防波堤として機能し、米国から援助や庇護を受けた事も大きい訳ですが、 それでもその本質的には、ナッシングトゥルーズ(nothing to lose)だった日本人が、忍耐と努力と根性と勤勉とで、一生懸命に明るい未来を掴もうとした「ひたむきな精神性(earnest spirit)」にある。と私は考えます。

そうした事を考えれば、個々人の啓発意欲や成長意欲や必死さ真剣さや一生懸命さや本気度合い、といった即ちモチベーション(motivation)が、文明文化や科学技術や経済産業の発達や発展にとって、如何に大切な要素であるか?という事をご理解頂けるでしょう。

現時点で各界の頂上に居られる方々が為すべき本旨から言えば、数歩先を進む英語圏に負けず劣らず、個人が自由と豊かさと自己実現とを勝ち取れる世界(経済生態系・社会生態系・文化生態系)を、ここ日本でも実現させる必要があり、 フロンティアでのゼロトゥワンをやろうとする高モチベーション高付加価値な人材を、国内からも国外からも増やして行く必要がある。という事です。

入社した人材に係る初年度年俸の3割といった高いカネを支払ってまで、わざわざヒューマンリソース事業者(HR)に依頼して、 高モチベーション高付加価値な人材(high class workers)を、世界的で取り合っている奪い合っているという構図が、現代のグローバリズム(globalism)なのですから。

故に、各界の頂上に君臨されて居られる方々は、私たち個人の内的側面や外的側面を矮小で窮屈な縄で縛り、何もかも不自由で愚かなままにさせ続ける。という戦略は余りにも時代錯誤や時代遅れ(anachronism)であって、 そんな前近代的戦略(premodern strategy)を採り続けている学校や企業や社会や国家は、そう遠くなく世界的な生存競争に負けて淘汰される。即ち、畢竟はフィジカルな意味で、生き延びる事ができなくなる。という事に気付かなければなりません。

さて、冒頭で「より賢明な存在になれる」「未来が変わる可能性がある」という事は確実。と大言壮語したからには、 「それ本当かよ?」と思われるでしょうから、ならば、ここで重要なエッセンスから先に、あなたへお伝えを致します。

より賢明な存在になるには、例えば、政府・総務省・文部科学省・民放連盟・各大学・各都道府県教育行政がいくら「メディアリテラシー(media literacy)を高めよう!」と提唱しているにせよ、 それらさえメディアという対象に限定化する様に用いられているという意味では、まだまだ嵌め込みの域を出ない。と気付かなければならない。という事です。

この意味をもっと具体的に言えば、 インターネットやマスメディアによる刷り込み・誇大・虚偽・捏造・すり替え・風説・風潮・隠蔽・空気・醸成といった、総じて情報操作や観念支配をしている発信者による企図だけでなく、 より俯瞰した視座から見た、「自分と相手と第三者や周囲や外部環境との関係性」といった構図構造に対する通時的理解、及び、共時的理解が大切である。という事です。

通時的とは、時間の流れや歴史的な変化に沿って、ある対象を眺める視点を言います。昔~現在~未来という時代の流れの中で、時代を遡ったり進めたりして考える視点です。いわば縦軸です。 共時的とは、ある時間軸上の一点において、複数の対象を眺める視点を言います。眺められる対象群が時間を共有している過去の一時点や同時代について考える視点です。いわば横軸です。

だから仮にもし、私たち一般市民である人々へ向かって、私たち自身が真に啓蒙され、私たち自身が持つ地力と実力とによって、本当の意味での自由と独立とを勝ち取れ、 最終的に市民社会全体がハッピーになれる類の理念を提唱するとすれば、「ドミネーションリテラシー(domination literacy)を高めよう!」 「自由民権運動(Freedom and People's Rights Movement)を始めよう!」「大同団結運動(movement united in the common interests)を始めよう!」という事になろうかと、私は思います。

さて、この人類世界の構図構造は太古の昔より、情報操作・観念支配・愚民化・矮小化・卑賤化・依存化・蒙昧化・御花畑化・視野狭窄化・ブラインド化といった 「個人と個人」「団体と個人」「団体と団体」との関係性において、知性や意志や立場や競争力や生存能力や強さが、相対的に劣る者に対して、支配と被支配という関係性を志向するものであった。

そして今もなお、この「支配被支配という関係性への志向」については、本質的には何も変わってはいない。文明が花開いた古代バビロニアの時代から、連綿とループしているだけの事なのだ。
という客観的事実への認識が、インターネットやスマートフォンといった、「高い利便性に加え、客観的事実への認識に対する、目隠しとも成り得る諸刃の剣」が普及した、現代という時代を生きる私たちにとって非常に重要な事なのです。

ただ単に、「愚民政策」「支配被支配」「有産階級」「無産階級」「柵檻観念」「権謀術数」「情報操作」「観念支配」「私利私欲」「搾取」「収奪」「強奪」「蹂躙」「酷使」「労役」 「欺罔」「詐欺」「詐害」「威嚇」

「洗脳」「工作」「教唆」「籠絡」「賄賂」「袖の下」「欺瞞」「騙し」「嵌め込み」「誑かす」「信者」「奴隷」「賤民」「隷従」「盲従」「信従」「被支配層」「下男」「下女」「女中」「奴婢」「従僕」「下僕」「底辺」

「マインドコントロール」「ブレインウォッシュ」「強欲資本主義」「強欲拝金主義」「強欲自己中心主義」「エゴイズム」「自分さえ良ければ」「自分が一番可愛い」 「カネに魂を売る」「教祖」「御輿」「操り人形」「仲間内グル」「取り巻き」「旨い汁」「欲得」「蓄財」「涎ダラダラ」「ウメエウメエ」 「好き勝手」「虫ケラ扱い」「私服を肥やす」

「傲岸不遜」「傲慢横柄」「卑怯卑屈」「汚濁汚物」「人を人とも思わぬ」「えげつなさ」「ゴミクズ」「人間の屑」「ペテン師」「人非人」「売国奴」「裏切り者」 「白切り」「病害虫」「万死に値する」「伏魔殿」「国賊」「悪魔」「陰謀」「邪教」「謀略」「悪巧み」「嘘八百」「出鱈目」「イカサマ」「捏造」「贋物」「インチキ」「鯖読み」「デマ」「似非」「ガセ」

「商売敵」「目の上の瘤」「邪魔者」「出る杭」「叩き潰す」「脅かす」「萎縮させる」「村八分」「見せしめ」「根も葉もない嫌疑を掛ける」「濡れ衣」「冤罪」「喧嘩別れ」 「シカト」「下請け」「下働き」「小使い」「踏み台」「割損」「割得」「役回り」「汚れ役」「貧乏籤」「骨折り損」「徒労」 「マウンティグ」「いちゃもん」「粗探し」「揚げ足取り」「足の引っ張り合い」「潰し合い」「縄張り争い」「パクり」「乗っ取り」「陰口」「悪口」

といった、歯に衣を着せぬ物事や人類営為の本質を、的確な客観性を以って指し示そうとする言葉が、現行体制を支配している側から見た時、 表面的な上っ面の社会関係を円滑に維持する上で、当たり障りのある刺々しい言葉である。(ユユシキジタイ)不適切な言葉である。(ケシカラン)

何故ならば、基本的に私利や私欲に基いて、コッソリと気付かないようナチュラルに行っている情報操作や観念支配といった、水面下の秘密裡に於ける支配企図源泉や支配実施状況を、下々から察知されて貰っては困る。 として、言論の場や表向きの世界において、こうした本質を指し示す言葉の数々が、オブラートに包まれていない状態で、敢えて公に出される事が無いよう、謂わば「危険物」として取り扱われているだけの事なのです。


そして更に言えば、この「支配被支配という関係性への志向」は、私力・私権・私財・私利・私欲・私事・私傘下・私集団といった、 究極的にはプライベートな「私」という個体(一個体生物)による意思を源泉としている。という事も、同時に認識しておく事があります。

だから、よく巨大インターネット電子掲示板で議論されている様な「共産主義と資本主義はどっちが良いの?」とか、或いは、気鋭論客が言う様な「いずれ資本主義は崩壊する。」といった論説は、ある意味では馬鹿げた話で、 人類の社会構造に於いては絶対的に、プライベートな「私」という個体による意思を源泉とする「支配被支配という関係性への志向」を目指すものである。

という私たち人類という種族の本質を認識できているのであれば、 どんな時代やどんな国家体制になろうと、支配被支配を実現させようとする手段が、洗脳教育(エコトバ)なのか、流通通貨(カネ)なのか、食料生産手段(メシ)なのか、武力軍事力(コブシ)なのか、 情報伝達手段(インフラ)なのか、プロダクト生産手段(モノ)なのか、サービス提供手段(テアシ)なのか、コンテンツ提供手段(メディア)なのか、光熱動力生成手段(エネルギー)なのか、或いは、それ以外の何かなのか?


という点が相違するというだけの話なのです。だから「誰かが誰かを支配しようとし、誰かが誰かに支配される。」という人類社会お決まりの構図構造は、 人類自体が遺伝子レベルに於ける種(Homo sapiens)の突然変異(mutation)でもしない限り、絶対的に変わりはしない。という事です。

私は、どの道こんな判り切った事は、インターネットを通じ万人に知られる訳ですから、だったらば全ての人が、 人類という種族が根源的に有している、その危険性や愚昧性を深く認識した上で、それを踏まえた上で議論して行こうとする態度が、文明文化の進歩というものである。と考えます。 ところで、この本質的な構図構造が人類社会において、相も変わらず悠久と存在し続けている中で、

イイ話・オモシロ話・キレイな話・ウットリする話・ウルウル・何でもポジティブ・ワハハハ・カワイイ・カッコイイ・ホルホル・ファンタジー・フィクション・ ○○ジャパン・○○ニッポン、といった、明るく楽しく心地よい情報ばかりを流し続け、極めて偏った情報提供の仕方をしている、 政府や企業や団体や機関というものは、私たちが本当に知らなければならない内実の数々や、深刻で重く扱われるべき内情の数々や、

私たちの蒙き精神性が啓かれ、より賢明になれる様な情報の数々を、漆黒のベールに包み、 私たちに現実を直視させない様にしているだけなのだ。私たちを出来る限り、未開で蒙昧な「か弱き羊の群れ」となるよう、 自己中心主義(egoism)と拝金主義(mammon)とに囚われた、優秀で頭の良い沢山の牧羊犬が、極めて偏向的な情報を流して、私たちを惑わせているだけの事なのだ。

容姿要望が美しい人やカワイイ人やカッコ良い人や面白い人やズバ抜けて運動が出来る人を、経済社会の牧羊犬的な位置付けとして扱う事で、喋らせたり語らせたり歌わせたり踊らせたり運動させたりといった、 現代の如く個々人毎に多様化した遍く市民層のくすぐったい場所(感情感帯・知性感帯)までを、市民の心を多幸感で満たす「くすぐりの手」を届かせる情報コンテンツの発信配信をして居るだけなのだ。

私たちの脳内で働いている思考回路や観念体系を操作して、何かで縛ったり、何かを焼き付けたり、何かで怖がらせたり、 何かを欲しがらさせたり、何かの虜にさせたり、何かを考えない様にさせたり、しているだけなのだ。(脳内ホルモンドバドバ) そして、この支配被支配の関係性を、強いて実現させようとする理念は、何ら高尚でも崇高でも無い。

とどの詰まりは、「自分さえ良ければ」「自分と自分の家族さえ良ければ」「自分と自分の御友達さえ良ければ」「自分と自分のグループさえ良ければ」「自分の仲良しこよしさえ良ければ」といった、 私力・私権・私財・私利・私欲・私事・私傘下・私集団、に限ってのベネフィットを追求しようとする、動物的発想(egoism/nepotism)と全く同一である。

という如何なる時代に於いても、共通する支配体制という構図の本質について、私たちは強く強く肝に銘じておく必要があります。 要するに、現代に於いて発信されている遍く情報コンテンツというものは、羊牧場を模して作ったピラミッドによる一極支配を志向するという点で、 嘗て極一部の人間が創った「神の啓示」や、はたまた天国と地獄とが記された聖書や仏典やコーランと、本質的な構図は何ら変わるものでは無い。という事です。


また、情報提供団体や諸活動団体から「何が語られたか」という事と同時に、「何が語られなかったか?」という事について、 想像次第で数多のケースがあり得えた筈である可能世界を思い巡らせる事が大切です。この私自身を例外扱いにする必要もありません。

この事は伝播や送受信される情報に留まらず、政府や企業やメディアといった情報提供団体が、作為した行為(作為行為)及び、 作為しなかった行為(不作為行為)についても同様、想像次第で数多のケースがあり得えた可能世界を想像し、思い巡らせる事が大切です。

そして「その」作為行為が実施された理由、および、その他に数多の可能性があり得えた中で、不作為行為が実施されなかった理由、とその意図や企図を考える必要があります。
情報提供団体や諸活動団体が持っている(いた)であろうブループリント(blue print)や、インセンティブ(incentive)や、アペタイザー(appetizer)といった思惑です。

何故ならば、この肝銘を常に意識し、対象主体者による作為不作為の理由や企図を考えようとしなければ、 そうした人々は必然的に、関係性上の被支配側に回らされ、畢竟、生殺与奪を握られ、下僕や搾取や隷属や破滅へと至らされる事になるからです。

一言で言えば、「騙されて嵌められて詰む。」という事ですね。こうした構図構造が太古から現代まで人類世界には、普遍的に共通して存在しているという状況から、 世界的に見れば、「馬鹿にされる。("A" Fools You.)」という言葉は、「馬鹿。」「阿呆。」「間抜け。」といった、貶したり罵ったりする事を意味するものではなく、

「"A"はYouを騙して何らかのズルを為した。」「"A"はYouを嵌め込んで何らかの害悪を及ぼした。」という意味として使われています。ほぼ「Cheat」と同義です。 要するに、嵌めるか?嵌められるか?という視点へのフォーカスが、グローバルスタンダードである。という事です。

これだけ科学技術や先進文明が発展していれば、カネと権力とを握っている連中が、もし本気でやろうと思えば、容易に実現できる事なんて、いくらでも考えられる訳です。 しかし、容易に安価で実現できる様な事を、何故サクサクとやらないのか?(ex.電子投票)

といった、数限りなく想像できる不作為行為と、情報提供団体や諸活動団体が持っているであろう、その背景にある意図について、想像力を逞しくして色々と思い巡らせるという事が重要である。と私は考えます。

もっと普遍的な話をすれば、そもそも世界観や価値観や人生観や死生観や哲学や思想信条やオピニオンを打ち出している様な、 文章(text)・画像(picture)・映像(video)・行為(action)・言動(behavior)・出力(output)・発信(transmission)・演出(performance)

と、いったものには、 遍く何らかの教義性や教条性といった「発意」や「意図」や「意義」が、必然的に含まれている訳ですから、 目の前に現前している情報提供されたコンテンツに対しては、一体どういう思考回路を踏んで、一体どういう論理過程を踏んで、

この文言や図柄が、この順序でこの時間(タイミング)に通知されているのか?表現されているのか?どの様な見込み対象者に発信されているのか?という、 創作者の「発意」や「意図」や「意義」を、脳内シュミレーションや脳内ピンボールをやりながら、その一貫した合理性を極力担保しようとする意志を以って、その「確からしい的」の所在を、汲んで行かなければならないのです。


翻って、貶したり罵ったり等という事は、所詮、言葉遊びに過ぎず、瑣末な視点に過ぎない。という事です。 何故ならば、言葉というものは、全く同一の状況に対して、私たちは何とでも言えるからです。全く同一の状況に対して、どんな言葉を用いてでも形容しようと思えばできるからです。

例えば、よく巷で言われる例で言えば、コップ半分に注がれた水について、「もう半分しか残っていない。もう終わりだ。」と形容する事もできれば、「まだ半分も水が残っている。まだ大丈夫だ。」 と形容する事もできます。だから、言葉によって相手や周囲から何と言われるか?等といった問題は、 その指摘や私見が十分な裏付けを伴うものでなければ、全く以って枝葉末節な視点に過ぎない。という事です。

何故、こういった事を誰も、世の中に実名を出してまで声高に語らないかと言えば、 ビジネス・金儲け・商売・商業・商取引・コマースといった経済活動をしている経営者といった経済人、教育活動をしている教育人、言論活動をしている言論人、そして政治家や公僕役人、

みんなみんな己よりも相対的に劣る個人に対して、こっそりとステルスマーケティング的にサイレントな嵌め込みを施そうとして、 自身の相対的プレゼンスを高め、支配被支配の関係性を強めようとしている
為、 経済人も教育人も言論人も政治家も役人も、誰も本当の真実(客観的構造)を語ろうとする事について、先ず以って利得をしないからです。

でも、超スーパー弩級の絶大に得をする人が、たった一人居ます。国民の90%以上を占める私たち(個人単位の市民各々)です。 こうした構図構造が成り立っているという事からすれば、誰もこうした事を真剣に指摘する人が居なければ、 私たち日本人はずっとずっと誰かに嵌められ続ける馬鹿を見て、いつもかつも損な役回りのままですよね?

だからこそ『九十五ヶ条の論題』と銘打った大きな紙を貼り出したマルティン・ルターの様な人物は、 何時の時代でも社会をダイナミックにより良いものへと、変容させて行く為に余りにも大切な存在である。と私は考えます。 (現時点では一応)経済先進国、尚且つ観念後進国という状況はもう止めて、いい加減、私たちは賢くなりませんか?ずっとずっと誰かに嵌められ続ける様な状況は、もう止めにしませんか?

そして最終的に、最も損な役回りや貧乏クジを引かされて泣き、しかもその上、悪意を持った誰かに有りもしない濡れ衣を着せられたり、 「やられた方が悪い。」「弱い方が悪い。」「馬鹿な方が悪い。」等と、周囲の国々や国際世論から言われたりして、結果的に日本に住む沢山の人々が、 長い長い年月を死ぬほど苦しまなければならなくなる。 といった、マジで泣きたくなる様な悲しい構図に至る愚は、もう止めにしませんか?

こうした生々しい現実を直視しようとする厳しい話をする事によって、限り在る「生」を与えられている間に、 何も知らない何も考えて来ていない人(個人単位の市民各々)が、ドス黒い悪意によって、ナチュラルに信憑させられている蒙きの類を啓かなければいけない。

と考えている私は、経済人や教育人や言論人や政治家や役人等からの反感を買って、隠密裡に彼らの誰かが金で雇ったヤカラ等によって、 ブッ○される可能性も無きにしも非ずというリスクを、少なくとも背負いながら、こうして言論活動を行っている。という事になります。つまり、究極そんな状況でさえ覚悟しています。

でも、そんなあなたに残念な事があります。いざとなれば、別に私は死んでも良いんですよ。みんなが真実に気づいて賢くなってくれれば。 日本の将来が少しでも明るいものになって、将来に生きる日本の人々が少しでも豊かになってくれて、 何時までも私たち自身の誇りと矜持を、国際社会に対して持ってくれさえすれば、私は死んでも良いんですよ。

何故ならば、私は21歳頃からこの方18年も、ずっと生き残るか死ぬかという事を、真剣に考え続けてきた人間だからです。 しかも、幾分かは日本を変えられるかもしれない公益的営利事業という、一大プロジェクトに携わってくれる人的体制は徐々に構築できていて、 先見の明ある私の意志は、自動的に次々と受け継がれる様になっています。

大切な事は、「覚悟を決めろ。」「小利口を目指すな。」という事ですね。欲望の塗れる「生」に執着するからこそ、人は「今」を真剣に生きられなくなるんです。 欲望の塗れる「生」に執着するからこそ、只管に己を守ろう守ろうとして、自己中心主義と拝金主義の奴隷に成り下がるんです。只管に己の私利私欲と保身保全にしか、意識が及ばなくなるんです。

ハイデガーが言う様に「死」を意識すればこそ、「今」という「生」を真剣に生きられる様になります。
もし死んだら、痛みや悔いや憤りや苦しみといった知覚や情動を感じる主観性は、完全に消え去るので、イザ己が死んで仕舞えば、別に何とも無い訳ですよ。 もし仮に、私の様な覚悟を決めた人間が死んだ状況に於いて、最も強い痛みがあるのは、「覚悟を決めた志」を失ったこの現世に残された現代日本と、現代日本という経済社会に生きている人々、そして、将来の日本に生きる人々、という構図になる訳です。

何故ならば、一個人による「生」への執着が起こっている数限りない膨大な件数に比べ、「(いざとなれば死をも辞さぬと)覚悟を決めた志」が存在している件数の方が、 比べる事が馬鹿馬鹿しくなる程、この世の中に於いては圧倒的に希少だからです。
ここにも実質として、需要と供給の経済原理が働いている訳です。故に、勇者の方が貴い(貴重)。となる訳です。

私は何時までも欲望に塗れた堕落や、マンネリの続く惰性や、目標も目的も無いただ醜い老衰が続くだけの「生」を、無様に生きたいとは思っていません。 もし世を変えようとする着火剤(火種)として、大義ある役目を十分に果たせたならば、それはそれで目的を果たせて満足ですし、それはそれで、もう己の「生」が終わっても良いと思います。

もし仮に、世を変えようとする着火剤(火種)として、大義ある役目を”十分に”果たせたならば。。 だから「もしこの世を生き抜こうとするならば真剣に!」

いくら政治家様や公僕役人様や企業経営者様が、私の論考について「こいつ鬱陶しいな。」と思わたとしても、その心証は実質的に意味はありません。 何故ならば、私は私が客観的認識だと考えている論考を、何らの観念支配や被支配も受けず、何時までも世の中にガンガンと広めて参りますので、封じ込めよう。押し潰そう。としても、もはや後戻りできないからです。

何故ならば、一旦インターネット上に掲載された情報というものは、その発信者の意志に関わらず、当サイトを訪問された志ある方々によるソーシャルなシェアによって、どんどん拡散されて行く訳ですから、
喩えてみれば、福島原発から漏れ出した放射能汚染水の様なもので、漏れ出した放射能は誰にも止めようが無く、福一原発から発せられ、海流のチカラであっと言う間に、海洋の隅々へと拡散されて行く訳です。

だから私の論考について難色や懸念や憂慮や憤慨や地団駄を踏む事には、意味が無いのです。自然なる時代の変化なのですから。 といっても本論考に対し、それだけ強い心証を抱けるという事は、過去長年の間、それだけ莫大な規模の利得をして来たという訳ですから、 即ち、巨大既得権益や役得によって十分に潤って来られた。という訳ですから、常識的に考えて、十ニ分に良かったのではありませんか?

何故ならば世の中には、何代も前に遡った先祖の世代から、貧窮に喘ぐ階層に置かれ続けているという人々も、膨大な数で存在している訳ですから、 そうした人々と比較すれば、今ここでネガティブな強い心証を抱けておられる方というのは、常識的な理屈からすれば遥かに恵まれて来た訳で、 その享受して来れた福利や恩恵の経時的な規模からすれば、私の論考による批正など取るに足らないものでしょう。


政治家様や公僕役人様や企業経営者様が採るべき在り方は、本論考に於いて考察された論点群を踏まえた上で、今後どの様な制度やビジネスモデルを、市民と構築して行く事が望ましいか? という未来に向けた眼や意識を持つ必要がある。という事です。

科学技術や文明はどんどん発展し、時代や社会はどんどん変化していく訳ですから、 今まで何十年も濡れ手に粟で旨味を独り占めできていたのに。。古き良き在り方のままの方が良かったのに。。と、いくら嘆いた所で仕方がありません。

誰しも外的環境に則して変わって行く以外に、生き残る術は無いのです。
本論考の趣旨は、「既に甚だしく富める者を、より一層富まそうとする思想や仕組みや在り方について、それを方法的に懐疑や相対化をした上で、 誤謬性や社会不適合があるならば、修正資本主義的に批正し是正し、修正する必要があるのではないか?」という事を問うている訳です。

喩えてみれば、「売上10兆円の老舗企業が、たった1社存続するよりも、売上1億円の新興企業が、100000社存続する方が、 日本の経済社会は全体として底上げが成り立つ事になる為、より明るい将来性のあるハッピーなものになるのではないか? そんな小学生でも分かる話、誰の眼からも判り切っているよな?これからはあらゆる面で、多元化の時代が訪れるのだから。
」という事です。

さて、成長戦略研究所の経営方針は、日本の経済社会に生きる個人の成長を図る。事業者(企業)の成長を図る。 ひいては国全体の成長を図る。それによって、将来の日本の経済社会に生きる人々を幸福にする。という事です。 故に、高みを目指す。程々に波風も立てる。程々に当たり障りもある。小さな殻から出る。

体裁や形式や規範や秩序は括弧に入れて留保しつつ考える。公共や社会の事に興味や危機感を持って頂く。あなた自身が抜きん出た傑人や賢人になって頂く。
といった態度を採ります。 これを包括的に言えば、いわば日本国内の万人に向けた、公益的営利事業を志向している。という訳です。

営利企業でありながら、言論によって世の中に警鐘を鳴らし、問題や課題を浮き彫りにし、その対案や解決策や打開策も提示する。という点では、社会起業にも若干の共通点があるかもしれません。

こうした態度を採る理由は、私が世話焼きであるという性分も否めませんが、私自身が長い間、切実な思いを噛みしめて来た苦労人であり、余りにも苦しい思いを何年も味わって来た手前、 私は日本の行く末と、将来の日本に於いて、間違いなく社会的に経済的に苦しむ事になるであろう、ミドル・ボトム・ベースに置かれ続けている日本の人々(大多数者)を、割りと真剣に憂いているからです。

その方法を簡単に言えば、あなたが世界の金融市場に於いて、自己資金による金融取引で得られる収益を生活の糧とする、金融取引業を完全なハンズフリー型で営める様にします。そして十分、経済的に潤って頂きます。 その潤った資金の内の幾分かを、実体あるリアルビジネスの立ち上げや、それを立ち上げようとしている人に出資をして頂ければ、あなたはリアルビジネスのファウンダーやオーナーになる事ができます。

何故こんな構想を描いているかと言えば、最終的にこの厳しい現実に直面している「あなたが助からない」「あなたが救われない。」「あなたが飛躍できない。」のであれば、 私の主張はある意味で、実質的な実行力を担保できていない単なる戯言として扱われ、 あなたにとっても私にとっても意味がありませんよね?

それって何ら面白くありませんよね?そこはご安心ください。「面白きことのなき世を面白く」するべき立場にある人間は、幕末を生きた故高杉晋作では無く、現代を生きている私たちの仕事なのですから。

なんて気取ってみましたが、インターネットとスマホが普及した現代に於いては、自営業者も、会社員も、公益団体職員も、 学生さんも、御婦人も、御老人も、公職に就かれておられる先生も、士業の先生も、皆アントレプレナーと言って差し支えない訳です。

インターネットとスマホを使って、誰でもが何時でも何処でも何でもできる様な恵まれた時代に成っているのですから。 現代に於いて「自分が何であるか?」という事は、地位や肩書や立場で決まるのでは無く、純粋に各人の自覚で決まります。要するに、各人の気持ち次第、そして各人の行動次第で決まる。という事です。



この冒頭で私が何を言おうとしているかと言えば、 現代の世界的時勢は昔に比べ、より実質・実力・実体・実行・本音・地頭といった「実」なるものが重視される世界へと変わって来ていて、この「実」なるものが現代に於ける価値だ。という事に、私たちは気付く必要があります。

即ち、人間が持つ内なる属人的能力・機能性・中身・自覚(自分自身の認識)・思想信条・振る舞いや態度から発せられる波長やオーラ、といった「実」なる要素で判断される世界へと、グローバルなトレンドが変わって来ている。という事です。

これを逆に言えば、建前・体裁・形式・世間体・肩書・地位・身分・出自・家柄・学歴・職歴・資格といった、外から付与される類の要素に対する価値は、徐々にとは言え低下して来ている。という事にも同時に気付く必要があります。


この点、外から付与される類の要素に対する価値が低下して来ているとは言え、吉本隆明が指摘した様な共同幻想について言うと、 貨幣・企業・契約・株式・組合・証券・利率・通貨・口座・担保・貸借・債権・債務・保証・保険・補償・格付といった「経済に関する観念群」は、依然としてグローバルに重要視され続けます。

何故ならば、貨幣や企業や私契約といった経済観念群は、各私人個体間の「価値や権利の保存」という点で、それらが実効している限り、人類文明への恩恵や便益が計り知れない。という点。

そして宗教・道徳・規範・価値観・国内法・地域社会・肩書・地位・身分・出自・家柄・学歴・職歴・資格といった国や地域によってバラバラで、グローバルに統一的な尺度(モノサシ)とは成らない観念群とは異なり、 経済観念群は英語と同じ世界共通言語の如く、数値や数量によって画一的な尺度の統一を果たしているからです。取り分けインターネットの世界的な普及によって、英語と経済観念群の中心価値化が一気に進んだと思います。

尺度がグローバルに統一されるという事は、あくまで共同幻想という観念でありつつも、経済観念群こそが世界中で普遍的価値として扱われる最たるものであるという事です。 従って、世界中に住んでいる大多数の人々は、何よりも英語と経済観念群へと向かう。という事を、当たり前かもしれませんが押さえておく必要があります。

兎も角、グローバリズムの進んだ現代という時代の特徴は、変形帝国主義(deformed imperialism)の如く、 英語と経済観念群が支配する世界へと、私たちは否応なしに吸い込まれて仕舞うのだ。という事を認識しておく必要があります。

例えば、人徳・信用・知識・智慧・努力・苦労・肩書・地位・身分といったものは、いくらそれらを蓄積したとしても完全に定量化できず、それら全てを画一的で客観的な表現形式によって表すという事ができません。

しかし、貨幣・企業・契約・株式・組合・証券・利率・通貨・口座・担保・貸借・債権・債務・保証・保険・補償・格付といった、主として価値や権利を表す経済観念群に於いては、 全ての中身を数値や数量で表す事ができる為、元々は単なる観念でありながら、誰しもが等しい中立的な程度的認識(量的認識)を持てるよう対外的に公示できる形で、観念の中身(数量)を蓄積する事ができます。

観念の中身を量的に蓄積できるという事になれば、蓄財に励んだ者がゲームに於ける強者となり、すると当然、強者はより己に有利なルールを適用しようとする原理が働く為、 そうなると何処までも、より早くより多くの蓄財を為し、価値や権利の蓄積を為している者こそが、何時までも何時までも天下布武(dominance)や覇権(hegemony)を握り続ける。という事を意味する。
という世界の構造が、私たちが生まれる数百年も前から既に出来上がっています。

江戸時代の士農工商で言えば、その後世に於いて、最も家系的アドバンテージとなったのは、結果論的には封建の世から、商業と蓄財とに励んでいた「商(merchant)」の身分であった。という事です。 例えば、国内外の財閥(conglomerates)の源流に於ける、始祖や創始者(Founder)の出自を考えてみてください。どれも封建の「商」が大半です。 逆に言えば、「(下級)士」「農」「工」は近代以降、結果論的に貧乏クジを引いた。(ex.士族の商法・現代公僕社畜の一身専属性)という事が言えるかと思います。

しかも、経時経年によって減価して行く実体のあるモノとは異なり、「商(merchant)」が有していたカネや「商業そのもの」といった経済観念群はあくまで観念である為、経時経年によって減価や劣化する事がありません。 つまり、経済観念群は何時までも価値や権利を維持したまま保存し続ける事ができ、実対象物の価値や権利を客観的に表現し反映させ、リンクさせられる機能的で動的な観念である。という訳です。

その動的さ故、サラリーマン的な属人的で固定的な一身専属性とは無縁の存在です。即ちプログラミングで言う所の、変数(ex."x")や関数(ex."y=ax")なのです。 故に、将来に於いても引き続き、経済観念群は価値や権利の中心であり、求心力のメインストリームであり続ける
という事になります。何故ならば、経済観念群に代替するものが現状不在だからです。

従い、現代の地球に住む大多数の人々は、文明や文化という灯りの下で暮らすのならば、価値や権利を示す経済観念群が、 標準的なモノサシになっている世界に、望む望まないに関わらず、オプティマイズして生きて行くという他は無いのです。

画一的で中立的で客観的な「凄さ」「素晴らしさ」「大きさ」「深さ」「貴さ」「自由」「チカラ」といった、価値や権利があるものの程度的認識を、包括的統一的にひっくるめて示せる比較モノサシは、 現状全世界に於いて唯一、経済観念群しか私たちには与えられていないからこそ、例えば、私たち個々人が自己の資産残高を、ビル・ゲイツやウォーレン・バフェットと比較して仕舞う。といった愚かなる発想に至る訳です。

しかしそれをして私たち個々人は、どんな気持ちになりますか?何のメリットがありますか?自分という存在が虫ケラの様な、鼻糞くらい小さな価値の無い存在で、彼らは世界中から羨望を集める崇敬すべき、偉大な神様だとでも言うのでしょうか?

もしそう思われたとすると、その様に考えさせられているという事は、余りにも馬鹿馬鹿しいと思いませんか?何故ならば、初めから完全なる負けゲーム負けルールを、押し付けられているだけなのである。という事です。

つまり、そもそもが全世界で単一化唯一化された、スタンダード(比較モノサシ)を外から与えられて、マスメディアによってこれ見よがしに、さり気なく顕示された大金持ちらと比べさせられ、 「ハッケヨイ、ノコッタ。」と行事が言った瞬間に、負かされ敗北させられているのである。という歴史的に作られた「余りにも不当な馬鹿馬鹿しい構図(fucking scheme)」に対する認識が必要である。
と私は考えます。

どうして私が世の中に現前している現象群を、誰かによって意図された使役形(causative form)で捉えているかと言えば、 「火のない所に煙は立たない(No smoke without fire)」「未必の故意(willful negligence)」「一事が万事(One instance shows all the rest)」という原理に基けば、 人間社会に於ける如何なる現前現象群も、その創出者や作出者の意思や意図の存在が推定できるからです。

要するに、何事もわざと故意にやっているんだろうな。そしてそれを自然偶然であるかの様に装っている。穿って見れる知性ある人は一部しか居らず、 世の中の大多数は、現前現象群の(超巧妙に作出された)自明性を、イチイチ時間を掛けて思索に耽り、敢えて懐疑しようとする事は、面倒くさいのでしない。という事です。

それにしても、デファクトスタンダード(比較モノサシ)の数は、本当に全世界で唯一単一でしょうか?価値や権利の程度を表現する為に、カネ以外の選択肢というものは、全く以って有り得ないのでしょうか?


この点について問い、新たなオルタナティブを創り出そうとする知識人や起業家や社会起業家が、これからの時代は大いに求められて行くでしょう。 何故ならば、外から押し付けられたゲームやルールといった、初めから勝ち目も無いグローバルスタンダードでありながら、

さもご丁寧にその土俵へ上がって、フェアで公正に真向勝負を期して闘おうとするという事は、余りにも馬鹿馬鹿しい愚か者(fools)でしかないのだから。 だから先ずは、外から押し付けられたゲームやルールから抜け出す必要がある。そして新たなオルタナティブを創り出す必要がある。
と私は考えます。

「知性・自由・精神・健康・人間関係・共同体・平和・文化・芸術といった要素の方が大切だ。」 「いくらカネが大量にあったとしても、それが私たちの幸福に直結する訳ではない。」 「共同幻想に過ぎないカネを、ただ只管に追い求めるだけの盲目隷従を過ごすのは馬鹿馬鹿しい。」

「誰も彼もがカネカネカネカネカネと叫び、強欲や下衆悪や自己中心主義や唯我独尊の蔓延る殺伐とした社会のままで良いのか?」 「単なる数字(数値数量)でしかない経済観念群に、時間の限られた貴重な人生を、弄ばれ踊らされたくない。」と、どれだけ叫んだ所で、現状ナンセンスです。

客観認識を踏まえていない綺麗事です。何故ならば、21世紀初頭に於ける人類文明は、経済観念群(数値数量)に代替するオルタナティブを、創造し得ていないのですから。 しかし、今ホットなブロックチェーン革命・暗号通貨革命が、従来型の経済観念群をガラッと変容させ、バーチャルな生態系が乱立した多元的経済に向かう可能性はあります。


何故こうした一見すると無駄とも見える話を、敢えて私がしているかと言えば、世界の在り方や物事を相対化し客観視ができる。 複数の多元的な視座や見方を同時に持てるという事は、余りにも重要な事だからです。視座や見方にこそ教養が問われるものです。

もし仮に、誰も彼もが生まれた時から眼の前にあるルールやゲームについて、それがもはや当たり前すぎて、そもそもを辿って行く様な「そもそもの在り方を問う思考」をしなくなって仕舞えば、 喩えてみれば、昔にルールを敷き、過去にゲームを作った側の団体や人間の掌の上で、それが割に合わないルールやゲームだと薄々感じつつも、何時までも踊らされ続ける。という悲壮感の溢れる状況に留まって仕舞う訳です。

もし仮に、そうした多元的な視座や見方のできる教養が無ければ、疑う余地もない観念や制度が普及し、 蔓延し切っている現代の様な爛熟した世界に於いては、藻掻き苦しむ濁流の渦中に、眼も鼻も耳も口も脳味噌も丸ごと浸かり切って仕舞い、 既に敷かれているそもそものルールについて問い、なぜ?どうして?

と、ルールを懐疑する事で、ゲームそのものをハックしようとする。という事ができなくなるからです。でもよくよく考えてみてください。あなたの人生はたった一度切りですよ? 割に合わないルールやゲームの上で、藻掻き苦しむだけで終わって仕舞って、それで良いのですか?


この文章を最後までお読み頂ければ、お分かりになるかと思いますが、勉強や英語は各人が自助努力すれば足りますが、 私は各人による自助努力だけでは解決しない「経済」に係る問題が最重要である。と考えていますので、 本メッセージの本旨としては経済の話をします。その上で、皆様の経済を潤す事ができる公益的営利事業のご提案を致します。

私は本メッセージの中でご提案をさせて頂く、公益的営利事業を成功させる為の戦略を何年も調査し、数年前に考案した素案を今現在まで練りに練りって来ておりますので、私が必要なものとして、残るは、「あなたの協力」です。

それは、気持ち的な協力であったり、資金的な協力であったり、拡散による協力であったり、支援者開拓の協力であったり、パートナー紹介による協力であったり、します。 今の日本で日々四苦八苦されている方々を助けられ、日本の将来を明るいものにできる画期的で未踏のビジネスモデルを、これから構築しようとしておりますので、何卒どうかどうか心からご支援の程を宜しくお願い申し上げます。m(_ _)m



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もうお気付きですよね?『史記』に「先んずれば人を制す。後るれば則ち人の制する所と為る。」とあり、他にも、「機先を制する」「先手は万手」「先手必勝」「早い者勝ち」とある通り、 グローバルスタンダード(世界標準)、デファクトスタンダード(実質的標準)をイチ早く手中にするという事が、 日本という国の経済や社会や学問の発展、及びそれによって日本人が得られる恩恵という点に於いては、余りにも重要な事なのです。

数歩先を進む英語圏の学者や経済事業者や創始者に、あらゆるグローバルスタンダードを持って行かれる。という状況は、日本という国として愚の骨頂である。と言わざるを得ません。 私たち日本人は、波風を立て無い、寄らば大樹の陰、忖度、以心伝心、阿吽の呼吸、空気嫁、

といった個人から自由と独立性とを奪う、教育・風潮・同調圧力・柵檻観念によって 「世界に先駆けてルールを決める権利を握る」という発想ができないが為に、産業的な新大陸や未踏領域に於ける、水面下での技術開発競争や国際競争の多くは、常に日本が劣後する。


といった日本にとって不利な構図が作られて仕舞い、過去、あらゆる学問・あらゆる産業・あらゆる分野・あらゆる領域、に於いて、 主として産業革命や科学技術が先行して発達した欧米諸国の後塵を拝し続けている。という構図に、今も相変わらず陥っています。

「諸外国からルールを与えられる」「お上が創ったルールを与えられる」「そしてそのゲームに於けるプレイヤーになる事を、実質的に半ば強制される」といった事が、どれだけ不利で隷属的な状況を招く事になるでしょう?

おそらく合理的に考えて、欧米中露印以といった諸国の人々は、日本を尻目に「あいつらはやること為すこと常に後手後手だよな。いつも決められたルールに縛られて、隷属的な下働きの様な超しんどい思いをしていながら、

いつも一番美味しい利益や立場は、欧米諸国に持って行かれるなんて馬鹿じゃないの?」「こりゃ何時までも日本人を従順で間抜けな状態にし続けておけば、 俺たちには都合が良いし、未来永劫安泰だわ。ヒャッハー。ヒヒヒヒ。」と言って、内心クスクスと笑っている事でしょう。

勿論、日本が極東アジアにある諸島農耕民族だから。外国資本と結託した明治維新(クーデター)によって、日本を外国人へ売る国体が作られたから。第二次世界大戦の敗戦国だから。と、そもそもの因果を語ればそれまでですが、 いくら私たちの起源や由来や過去を、言い訳やエクスキューズとしても、私たちの将来にとって何ら意味がありません。単にそれらの行為は、惨めな「か弱き羊」である事を再確認し、より強い負け癖の付いた存在(競争弱者)にさせるだけです。

だからこそ、私たちは「世界に先駆けてルールを決める権利を、諸外国によって握られている」という事実に早く気付き、 日本人こそが常に先鞭を付け、常に率先してルールを決めて、常に国際的な主導権を握った上で、 それ以降は、何時までも日本にとって有利な国際競争ができるようゲームの在り方そのものを変え、そして且つ創っていく必要がある。と、私は考えます。

たとえ、これからの日本が少子高齢社会となり、経済成長率が低いままであったとしても、 将来的に生成消滅して行くであろう、ありとあらゆる新学問や新産業や新分野や新領域に於いて、何時までも日本にとって有利な国際競争ができる様なゲームの在り方やルールを自発的に創っていけば、 これまで同様、或いはこれまで以上の経済規模を有する日本という国の繁栄を期す事は可能なのです。

喩えて言えば、大英帝国以降、国力の衰えた英国が採っている様なゲームメイキングな戦略(ex.英連邦ネットワークによって囲い込んだブロック経済市場)を採るべきである。と私は主張します。 このゲームメイキングな発想、或いは、既に敷設された完膚無きまでの負けゲームの中に置かれているとするならば、思い切ってゲームチェンジャーをやろうとする発想こそが、日本人にとって最重要なのです。

欧米諸国が彼らの利益確保の最優先を企図して創出した、ゲームやルールや神話や観念や作り話に、何時までも嵌められたままであっては行けないのです。
例えば、「欧米人は元々が狩猟民族で、日本人を含むアジア人は元々が農耕民族だ。」の様な言葉は、本当にそうでしょうか?

太古からの歴史を踏まえた洞察でしょうか? 欧米人もアジア人も、狩猟と農耕のどちらも営んで居た時期があるという点では、どうもステレオタイプ化による日本人の負け癖定着を狙った、単なる作り話の様に感じませんか?

重要な事なので繰り返しますが、日本が将来創出される新産業・新学問・新領域・新分野、に於いて、常に必ず諸外国に先駆けて先手先手を取って行かなければならないのです。 アムンゼンとスコットの様に「巨大な未踏大陸に我が御旗を立てよう。」即ち、「世界の誰よりも先に、グローバルスタンダードを創ろう。」という発想ができなければ、 脳内の観念をノックアウトされた日和見・御花畑・他人事、のいずれかとしか言いようがありません。

しかし、世界に率先しようとしても、日本国内に於ける各学界・各業界・各分野・各領域で、 ドメスティックプレイヤー同士の縄張り争い・主導権争い・票の奪い合い・足の引っ張り合い・コンフリクト・異口異音・衆目不一致・意思不統一・百家争鳴、 といった状況が、ありとあらゆる業界で日常茶飯事に起こる事によって、私たちの多くが近視眼的・視野狭窄・マウンティング合戦、即ち、シンクスモール、になって仕舞う。

結果、国内シンクスモールへの場当たり的対処や、相互の合意形成に時間を食っている間に、グローバルスタンダード・デファクトスタンダードを、 諸外国のファウンダー・コーポレート・グループ・パーティーに、丸ごとゴッソリと持って行かれる。 といった愚(漁夫の損)と言わざるを得ない状況に陥る事は、これからの時代は何があっても避けなければなりません。

その理由は、数百兆円規模の未踏市場を、仮にもし日本が獲り損ねた場合の逸失利益を考えてみてください。 そして以後に何十年も続く、その未踏市場に於ける産業の継続的発展を、主導的に掴めない場合の逸失利益を考えてみてください。

故に、その逸失利益や機会損失の途方も無い巨大さを想えば、この構図の愚を回避する為の(国立公立)公的機関さえ必要ではないか?と私は考えます。 従い、決して私たちは「木を見て森を見ず」となってはならず、「枝葉を見て心で森を想像すべし」「井の中の蛙と雖も大海を推して知るべし」といった、「一を聞いて十を知る」様な合理的認識の在り方を採る必要がある。
と、私は考えます。

見えぬ森や大海を推して知れと申しましたが、近い将来出現し得るフロンティアや未踏領域、或いは観念で構成される領域といったものは、何処までも時間を掛けて専門知識や視野拡大を追求した結果として、それらの存在を推定できる人間にしか見えません。

例えば、「地球の中心に何でできているの?」「宇宙の始まりや宇宙の果てはどうなっているの?」「プトレマイオス朝を生きて居たエジプト人は、どんな世界観を持って生活していたの?」 「人工知能は人間みたいな哲学や思想を生み出せるの?」「シンギュラリティーに達したら、具体的に何が起こるの?」といった話と同様、推定する以外に知る術が無い対象は、それがイメージ(心象)として見える人間にしか見えません。

逆に言えば、専門性を積み重ね、歴史を振り返り温故知新をし、演繹と帰納による論理の積み上げによって推理推論をし、合理的な仮説を組み立てられる人間だけが、確からしい蓋然的な可能性や妥当性を私見という形で語る程度に留まる。という事です。


ならば、たとえ近未来であっても、未だ訪れていない時代に起こるであろう状況を、上記の方法で予測予見でき、その合理的仮説に基いて自発的に行動ができる人物は、それだけで十分な知識人であり、十分な起業家であると言えます。

だからこそ知識人や起業家は、旧態依然が続いた場合に起こる未来を予測する事ができ、ならば未来を変える事ができ、未来を創り出せる存在なのです。即ち、私たちは私たちの意思によって、訪れる未来を主体的に選ぶ事ができる。という事です。

逆に、因果決定論(determinism)などという馬鹿げた世界観を信じる人間の数が増えて仕舞えば、個々人の内面に無気力・諦念・ニヒリズム・デカダンス・アパシー・ペシミズムといった頽廃が蔓延し、私たちの未来や世の中は悪くなるだけなのです。

因果決定論を信じるか?人間特有の自由意志を信じるか?という命題については、その真理がどうであるか?という話では無いのです。 そもそも命題設定の時点で、その真理など私たち人間には原理的に知り得る術が無いのですから。

これは方法的に「どちらを今の私たちは選ぶ?」というだけの問題なのです。 もっと本質的に言えば、「もう諦める?(´Д⊂」それとも「まだ諦めない?( ・`Д・´)」というだけの問題なのです。


知識人とは言っても、只管インプットをし続けインプットだけに留まる知識人、いくら時間と労力を掛けて知識や知恵を学んだとしても、 只管に特権階級や権力を擁護するに留まり、時の権力者に都合のよい説を唱える御用学者や、曲学阿世の徒であってはいけないんです。

メンタルブロック・プログラムドロック・柵檻・束縛・拘束として機能している、私たち個々人の内面から自由と独立性とを奪う悪しき観念群から抜け出し、 時間と労力を掛けて学んだ知識や知恵を活用し、自分の頭で考えて行動が出来る独立した在り方こそ、本来的に貴いと私は考えます。
勿論、言うは易く行うは難しです。

但し、このインターネット社会に於いては、己のウェブサイトを立ち上げる、沢山の人にオピニオンを伝える、といった営為さえ、十分に「行う」という水準にある訳です。 政府庇護と護送船団と広告収益とで手厚く守られているマスコミ・マスメディアよりも、

勇気を持って自分の意見を言える、勇ましき者(勇者)となり得る個々人(市民)の方が、そもそも論を考えた場合、圧倒的に貴いのである。
と私は考えます。 何故ならば、自主独立でする行為や言論は、強い覚悟と勇気とが無ければできない事だからです。その行為そのものが難しい事だからです。

歴史の教科書に書かれた帝国主義といった過去の時代に遡れば、ゲームやルールを作っていた欧米のトップは上記と似た様な、 足の引っ張り合い的な構図を作ろうとして、肌に色を有している人々が古くから住んでいた歴史と伝統のあった地域で、 そこに住む人々の僅かな考え方や流派の違いを利用して、アジア・中東・アフリカ・ラテンアメリカの各国内が意思不統一になるよう、幾度となく内部分裂を意図的に引き起こして来ました。

ある意味、今の私たちや、私たちの周囲に在る近隣諸国と私たちの関係性も、彼らの思う存分に分断させられて来た訳です。 その事に気付けている極少数の日本人と、その事に気付けていない対日戦略に鴨られた大多数の人が居るというだけの話で。


そのくらいアジア・中東・アフリカ・ラテンアメリカに於ける各国々に住んでいる市民のマスボリューム層に気付かれ意思統一をされて、グローバルスタンダードがゲームチェンジされる事を、欧米諸国は怖れて来た訳です。

私が訴えたい事は、欧米に鴨られる事を趣旨として仕立てられた風潮や制度や観念が、アンシャンレジームの如く蔓延って仕舞ったままの状態が、これからも続いて仕舞えば、私たちの日本に未来はありません。 いま私たちが何もしなければ、もうあと50年もすれば、この國は国際競争に破れ、魅力に失せた二流三流国家へと成り下がるだけです。



初めまして。申し遅れました。私は、2018年現在で39歳になる自営業者(会社経営者)で、小橋健一と申します。岡山県で育ちました。いまは岡山県と東京都を仕事で行き来している生活を送っています。 本日は成長戦略研究所のウェブサイトへお越し頂きまして、誠に有り難い御座います。

こうして日本の何処か或いは世界の何処かに居るあなたと、直接お話はまだしていないとは言え、インターネット越しでも出会えた事に感謝しています。 私自身は日本広しと雖も、間違い無く、最も口惜しい口惜しい思いを長年して来た、名も無き起業家の一人である。と称しても過言ではありません。

ここでは割りと重い話をしますので、現実の直視・構図構造の把握・人生の意味・逆境の克服・事業者の成長・個人の成長・目的の達成・将来日本の在り方、 といった重い話について、余りご興味が無い方は、このウェブサイトを閉じて頂いた方が宜しいかと思います。


何故ならば真剣で重い話は、ある意味で世に言う「意識高い系」であろうとしなければ、受け止められないものだからです。 成長戦略研究所のウェブサイトは現実を直視し、現実や自分を変えたいと真剣に切望する方が対象です。 そうした真剣な方にとっては、最良のコンテンツやノウハウやコンサルティングを御提供して参る所存です。

逆に、高みを目指さない。波風を立てない。当たり障りのない。小さな殻から出ない。体裁や形式や規範や秩序を重視する。公共や社会の事には興味がない。といった生き方をされておられる方にとって、ここは縁の無いウェブサイトだと思います。

さて、私の実質が何であり、私がこれまで何を行って生きて来たか、という事からお話しましょう。私は過去17年間、国内海外のウェブ世界を対象とした膨大なタブブラウジングを、日々の営為とする自称リサーチャーを実質的に営んで来ました。

実質的にと書いた理由は、その当時当時に私の肩書や職責が別にあっても、暇な時間を見つけてはコツコツと主として為して来た営為が、膨大な時間を注いだ国内海外のウェブリサーチだったからです。 その理由は、ADSLが導入された以降、いくらネットサーフィンをしようがタダ(非従量制課金)だったからです。

最初は22歳の時分に「donut」というタブブラウザを使う事から始まりました。今の様なfirefoxもchromeもoperaもsafariもsleipnirもlunascapeもvivaldiもkinzaも無かった時代です。2002年当時の主なブラウザは、ieとnetscapeくらいしか無かった様に記憶しています。

そんな頃、私が超マイナーな「donut」というタブブラウザを見つけて、「donut」シリーズを使い始めた理由は、ieとnetscapeにはタブ機能が付いておらず、 もっと膨大な量のネットサーフィンをしたい!という湧き出る渇望が、ieやnetscapeでは満たされなかったからであり、この点、タブブラウザを使えば情報収集の生産性が飛躍的に上がったからです。

やはり先端を行く文明の利器を、有効活用する事は非常に重要である。と私は思っていました。 そして当時は世を知らぬ若年青二才であった私自身が「この世界の事」について、もっと広く深く詳しく知りたかったからです。要するに、純粋に知的好奇心が旺盛な若者だった
からです。

とは言え、始まりが自称リサーチャーであるとは言いつつも、 17年間も国内海外の膨大なタブブラウジングをやっていれば、その知識の蓄積から公称としてリサーチャーを名乗る事も許されるだろう。と思い、こうして成長戦略研究所を立ち上げ、それと同時に本ウェブサイトを立ち上げました。

これまで私の内心に於いて、国内海外のウェブから得た知見により、おそらくこの日本の中で、私しか知り得ていない類の事は沢山ありましたが、 しかし、私自身の競争優位性の点から、そうした知識や知恵を詳らかにするインセンティブがありませんでした。

何故ならば、仮にインターネット上で至高のアイデアを公開したとしても、そのアイデアから得られる経済的便益は、基本的に知識の蓄積や思索の耽溺という努力をしなかった他人によって、 フリーライドされ簡単にパクられて仕舞い、実質的にイの一番に価値のある「知」を得た者の手柄や成果は、一瞬で奪われるからです。

即ち、何らかのコンテンツを一般に開示した場合のライツは特許権ではなく著作権であり、個人が発案した知恵や知見や洞察やアイデアといった、最も付加価値や経済的なポテンシャルが大きくなる「知」という要素に対し、 仮に将来それが花開いた時の経済的便益までをも、著作権は全くと言って良いほど保護してはくれないから
です。

故に古来、付加価値や経済的なポテンシャルが大きくなる「知」という要素については、一子相伝や口伝といった「知」の秘匿的承継が隠密で行われてきた訳です。 そして大半の人は、「本当に旨い話があれば、それを自分だけで囲って他人には教えない。」という態度へ向かう事が必至です。 その理由は、持たざる者は得てして矮小化しているからです。(勿論、持てる者であっても矮小化している場合が多々あります。これは最悪な在り方です。)

つまり、持たざる者の棲んでいる世界は得てして、報酬や金銭や収益や市場といった限られたパイの奪い合いが状態化した世界に棲んでいるからです。だから、持たざる者はシンクスモールになり易い。 その一方で持てる者は、上記の対極にある世界に棲んでいる訳ですから、金持ち喧嘩せずになり易い。という事が言えるかと思います。

他方、書籍や情報商材等に於ける「知」は、「金銭対価」及び「アフィリエイト報酬」或いは、 「オウンドメディア運営よる高いSEO効果とページビュー数の結果として得られる広告収益」といった経済的なインセンティブがあるからこそ、価値ある「知」の伝播が成り立っていますが、

ここでも基本的に卓越した「知」や情報については、トリクルダウン的な文化流水論が成り立っていますし、バックエンドやアップセルによって、その「知」が持つ価値の核心に対して正当な対価が徴収されていますし、 はたまた強者と弱者の構図が、ひっくり返って仕舞うほどのインパクトのある「知」や情報については、その殆どが川の上流ギルド内で秘匿されています。 故に、猫も杓子も川の上流ギルドへ加わろうとします。

従って、こうした点を踏まえると、コピーライト(著作権)は実質的に極めて弱い権利です。これはパテント(特許権)でさえ、仮に侵害された場合に於いて、発明者の経済的便益が守られ得る状況というものは、限定的であると言えます。 何故ならば、そもそも国家や法律による制度的保護というものは、共同幻想という二次的原理が成り立っている綺麗な世界でしか通用しないからです。

そうした優れた「知」や情報を巡る諸処の前提がある中で、「敢えて顔と名を出してまで、世のエバンジェリストになりたい訳でもなく、たとえいくら効用や便益の著しいコンテンツを開陳したとしても、 仮に世の中の半分を性悪説で考えれば、それをパクりやフリーライドする人々からは、レベニューシェアもリスペクトもパートナーシップも得られない。

そんな見ず知らずの恩知らずが、仮に世の中の半分くらい居るとすれば、多大なるベネフィットポテンシャルを提供する事が馬鹿馬鹿しくなる。」と、これまでの私は思っていた訳です。 おそらく常識的に考えれば、今現在もこの様に考えておられる方が、世の大多数を占めているだろうと思われます。


成長戦略研究所のウェブサイトを立ち上げた今現在の時点に於いて、 私がそうした態度を評するとすれば、「取り分け持たざる者が傾斜し易い、利己的で至極矮小な考え方や在り方の発露である。」と言えます。

"取り分け"持たざる者と書いた理由は、場合によっては、 あらゆるリソースを持つに至っている経済社会の上層に君臨する者でさえ、利己的で至極矮小な考え方や在り方に傾斜している状況も、 カネ(拝金主義・金銭至上主義)が、一極支配的自己中心教の擬態となっている資本主義自由市場経済という仕組み上、この世のあらゆる所に存在しているからです。 言ってみれば、「エゴの極地」という事ですね。(シネバイイノニ)

「じゃあ、そんな態度を利己的で至極矮小なんて批判しているという事は、今現時点に於けるお前の考え方は違うのか?」と問われれば、幾分か考え方が変わりました。 どういう風に変わったかと言えば、 私自身とて、過去17年間、膨大な量のタブブラウジングによって、国内外のウェブサイトを読み漁って来た。

という事からすれば、「いわばお前だって、世界の何処かに居る "志 "ある赤の他人が、 男気を以って公開してくれていた知識や知恵や情報にフリーライドできたからこそ、少しは賢くなる事ができた訳だろ?」という気付きを得たからです。

厳しい人生を自分一人で生きて来た。無知な状態から自分一人の努力で知性を築いてきた。かの様に、実は物凄く驕った精神的な態度で、誤認や錯覚をして居ただけで、 そんな態度は単なる傲慢で暗愚で間抜けで前近代的で無知蒙昧なエゴでしか無い。

何が自己啓発をして来ただ。何が学問だ。馬鹿か俺?マジで馬鹿だったな俺は。。Orz。という事に気付いたからです。 つまり、人間は、自が他に与えた事に関しては、過度に意識が及んで仕舞うのに対し、 他が自に与えてくれた事に関しては、なかなか意識が及び難く、その絶大な恩恵にさえ気付き難い。という浅はかな生き物なのです。

今私たちが先進的な現代文明の利器を享受できている理由は、古い時代を生きた先人や先祖が、驚くべき程に恵まれた環境が与えられていなかった中で、 知恵を振り絞って苦しい思いをして、頑張ってそれらを創り出して来てくれたから。 今私たちがコンテンツやサービスやプロダクトを享受できている理由は、誰かの為に何かを頑張って働いてくれた人が居たから。

今私たちがコンテンツやサービスやプロダクトを享受できている理由は、誰かの為に "今そこで "何かを頑張って働いてくれている人がいるから。 つまり、たった自分一人の力で、ゼロから築けるものなんか何も無いんだ。という事に、私たちは気付く必要があります。


だからこそ、世の中にある沢山の自己啓発本や書籍等を読めば殆ど一様に、 「感謝せよ。私たちは感謝できる事に気付かなければならない。」「感謝ができる事に本当に気付けたならば、何が心から湧き出て来る?」 「私たちの身の回りにはどんな事が起こる?」「何時の間にか、私たちはハッピーになれているよね?」と書かれているのです。

この理屈を説明すれば、感謝ができる事に本当に気付けた人たちが、一般の人々に対してギブアンドギブで、卓越した「知」や情報を与えようとする事を、 惜しまなくなるからこそです。そして畢竟、社会全体がフェアで自由でハッピーな在り方へと、変容して行くという訳です。

そして先に述べた「利己的で至極矮小な考え方や在り方」に私が終始する事を止めて、この場で長文メッセージを書き記しそうとしている理由とも重なりますが、 「過去17年間に渡ってリサーチ活動をして来た私が、蓄積して来た個人や事業者(企業)の成長をハックできる様な、知識や知恵や方法論やビジネスモデルを、 このまま私の頭の中に死蔵しているだけで良いのか?」

「私が死んだらそれらの知識や知恵や方法論やビジネスモデルは、誰にも伝わる事なく泡沫へと消え去って仕舞う。」 「それらをコツコツと蓄積して来た私の苦労に、じゃあ何の意味があった?」 「ナレッジワーカーとして只管に "知 "を守ろうとする、利己的で至極矮小な考え方や在り方に、社会的な公に対する意義や意味として、じゃあ何の意味合いがあった?」


という内発的な問い対し、 その自問を一蹴し黙り切らせるだけの納得のゆく論駁が、自分の中できなかったからです。 「お金はあの世まで持って行けない。」とはよく言われますが、属人的な「知」とて死んだら書き残すか、何らかの媒体で伝えておくかしていなければ、 人生を賭けた全ての知的活動というものは、一瞬でひとたまりも無く水泡に帰して仕舞う。という訳です。

故に、私は一つの御提案として、あなた御自身の知的活動によって生み出された知的財産は、あなたが亡くなる前までに、社会や経済に貢献できる何らかの形 (ex.メディア・媒体・コンテンツ・意志継承者・技術継承者)で、あなたの名誉と共に遺されておく事を、私は強くお奨めを致します。

話を戻すと、現代に於いて、本当に優れた「知」、本当に競争優位性のある「知」、一言で言えば、万人がハッピーになる類の価値ある「知」が、 なかなか表に出て来ない理由は、当にこの「利己的で至極矮小な考え方や在り方」に由来しています。 例えば、電気の天才ニコラ・テスラが生み出した、万人がハッピーになる類の「知」を、銀行家ジョン・ピアポント・モルガンが潰した。という事例が、この事(世の常)を裏づけられるかと思います。

これほどまでに先進的な現代文明が生み出した、数多の利器や制度を享受できていながら、「文明文化の恩恵に感謝さえできないなんて有り得なくね?」 「一体どんな神経してんの?」という事に、私たちが気付けて居ないからである。
と私は考えます。 言い換えれば、みんな自分の私事や営利や傘下や保身や保全ばかりを、強く意識して仕舞っているからです。即ち、みんなエゴイズムに囚われているからです。

自が他に与えた事に関しては、過度に意識が及んで仕舞うのに対し、他が自に与えてくれた事に関しては、 その絶大な恩恵にさえ気付かない・気付けない・気付こうとも思わない・仮に気付いたとしても気付かなかった振りをする。

つまり、高等な知能を持った人間(Homo sapiens)でありながら、余りにも浅はかで原始的な観念を持った存在(動物的な生き物)のまま、何時までも蒙き在り方に留まって居ようとするからです。

ヒュージピラミッドスキーム及び、諸処のルアーインセンティブに釣られた牧羊犬とを、狡猾に活用したドス黒い悪意を以った現行社会体制が、そんな安易で楽な市民の在り方を、故意に企図して容認し歓迎しているが為に、

何時までも私たちの大半が、蒙き在り方、即ち「クレクレ君」・「観念乞食」・「収穫一辺倒」・「義務を履行せず権利だけを叫ぶ人」・ 「努力も仕事もせず果実だけを食べる人」・「ひっそりと世の陰に隠れて、文明文化の恩恵を受益するだけの、何も言わ無いタダで貰い屋」といった卑小で浅はかな在り方に、留まったままで居ようとするからです。

つまり、結局は私たちの大半が、自己中心主義・利己主義・唯我独尊・「己のエゴしか頭に無い人」・「自分が一番可愛い人」・「感謝無き人」といった、蒙き在り方に何時までも留まって居ようとするからです。

また更に言えば、現行社会体制は大半の市民が、権力や権威に対して畏縮し、且つ、エゴで欲深く蒙昧な羊の群れ(flock of sheep)であればあるほど、ドス黒い悪意に満ちた頂上執行部から、一極支配をするのに都合が良い。(デュフフフ)

と考えていて、故に、大半の市民を賢者や勇者や傑人にしてくれる様な、とってもとっても奇特な営為を、 政府自身の信用と徴税された上納金とを原資とする政府予算を用いてまで、市民一人一人に施してくれる。なんて事は有り得ないのです!


簡単な英語で表わせば、「Govt always gets citizens cowered.」と言った所でしょうか。 その点で言えば、権利・権力・地位・金欲(拝金主義・金銭万能主義)・物欲・食欲・肉欲・名誉欲といった、あらゆる類の私欲充足(エゴ充足)即ち、諸処のルアーインセンティブは、 ドス黒い悪意に満ちたヒュージピラミッドスキームという体制構造を、裏支えする為の「精神的支柱」である。と言えます。

じゃあ、ここで私が重要な見分け方を教えます!自ら率先してギブしようとしない理由は、殆どの場合、そのままイコール感謝しない人である。 という事を意味します。本当に心で感謝する人は、見返りなんて期待せず自発的にギブしようとします。

だから、ある人が感謝する人か?感謝しない人か?を見極めるには、その人の行動によって簡単に判別できて仕舞う。という訳です。 故に、世の中を良くしようと思えば、心で感謝する人を富まし、心で感謝する人の数を増やせば良いのです!

逆に、心で感謝しない人を富まさ無い様にし、心で感謝しない人の数を減らせば良いのです!尚、この「心で」という語は、「本人の自ずから湧き出る自然的な本音で、」という意味です。

要するに、己自身にも厳しい眼差しを向け、心で感謝しない人(心の在り方)を、白い目で睨み付けて仕舞えば良く、 上記の様な、蒙き在り方に留まっている人々を、白い目で睨み付けて仕舞えば良い。という訳です。
本論考の後半で述べますが、

こうした「白い目による睨み」こそが、欧米に根付いているノブレスオブリージュの精神を形成するに至った、 昔々の市民が持っていたと合理性を以って考えられる、勇ましく逞しき「有り余る程に持てる自己中野郎(wealthy egoist)」への批判精神であり、 驕り切った権威権力を牽制し、彼らの尊大な態度を「弱者や持たざる者の集合」が、力づくの拳で譲歩させて来た仕組みである。と断言します。

話を戻すと、ただその一方で、莫大な富を生み出す知財考案者への経済的便益と権利保護は、重要な問題です。 例えばもし仮に、日本企業が各社の企業秘密やコア技術を、全て世界各国へ無償で開示して仕舞ったら、 日本企業の国際競争力は、どれほど壊滅的に崩壊する事になると言うのでしょう?という事ですね。

だからこそ、それらは何時までも企業秘密となったままですし、しかも、それらの一部は特許権・実用新案権・意匠権・商標権といった知的財産権によって保護されています。 でも、たとえある一国で特許権を取得したからと言って、その特許権による権利の保護は完全ではありません。

というのも、国内アンダーグラウンドや諸外国アンダーグラウンドに於いて、次々とパクり屋が暗躍し、元アイデア考案者の権利を水面下から徐々に侵害して行きます。 勿論、中国に大勢いる様なパクり屋が暗躍してくれたり、既存特許権の効力が切れてジェネリック的になってくれるからこそ、 価値の源泉となっているオリジナルなアイデアや、研究開発から得られる便益や効用を、一般庶民が安価な値段で手に入れられる。という側面もあります。

もとかく「知」と言うものは公に知れ渡れば、すぐ何処にでもありふれたものへと陳腐化して仕舞う。という性質があります。 特に、インターネットやソーシャルメディアが普及した現代は、その陳腐化の現象が顕著に起こっています。

故に、莫大な富を生み出せる知財の考案者が、正当な対価として得るべき経済的便益の甚だしい巨大さと、 その知財(アイデア)がいったん一般に流出して仕舞った場合に於ける、陳腐化や無価値化のコントラストが余りにも激しい。という訳です。 そして、そんな莫大な富を生み出せる「知」でさえ、いったん陳腐化して仕舞えば、もはや不可逆的です。「覆水盆に返らず」「後の祭り」です。

故に、素晴らしいアイデア・属人的な独自の知恵・競争優位性の高いビジネスモデル、といった「知」は、通常秘匿される事になります。 何故ならば、そうした付加価値の高い「知」を蓄積し、新しい「知」を生み出すナレッジワーカーである個人にとって、 「蓄積して来た知識」と「頭を振り絞って生み出した知恵」の開示非開示こそが、将来その本人の生き死にを左右する、最重要の問題だからです。

しかしながら、経験17年のリサーチャーを営んで来た私は知っています。 個人がどれだけ優れた知恵を出し、優れたアイデアを考案しようと、いざそれをビジネスにして、そこから大きな収益が生まれた場合、 大抵の場合、大きな収益はビジネスに少額の原始資金を拠出した資本家(capitalist)の所有物(property)になって仕舞うという事を。

アメリカやドイツやイスラエルを筆頭とする諸外国の様に、日本から次々とイノベーションが起こらない理由は、 優れた知恵や優れたアイデアを出した、個人の経済的便益を保護する仕組みが、余りにも拙く不十分だからです。 独創的に考案した優れたアイデアが横取りされ、乗っ取られるかもしれないと思えば、市民が一般の公にアイデアを出すインセンティブは失われます。

今ある知財制度は余りにも不十分であり、アイデア発案者の権利(経済的便益)を公的部門が守ってくれないからです。 もっと本質的に言えば、権力の対岸に居る市民のチカラ(民権)が欧米に比べて弱いからです! 喩えるならば、市民一人一人が剣や槍や盾や矢や火や馬や棘や鎧や旗や狼煙を持たないからです。 故に、本論考の大半は、「市民のチカラ(民権)を強く!」という事を訴えています。
さながら平成の自由民権運動といった所でしょうか。

またビックリする程ユニークでオリジナリティ溢れる優れた知恵やアイデアを創出する事のできるフリーランス的なナレッジワーカーが、 自然発生的に草の根レベルから湧き出て来る仕組みを、日本の社会が構築途上にあるからです。 そして、これは日本の国家が予算を投じて主導したり、行政がそうした草の根レベルの発芽を養育している。 という訳では現状ありません。草の根レベルは放任されています。

柵檻観念に囚われていない精神的に自由な個人、生殺与奪を握られていない経済的に自由な個人、 この両者が自然発生的な草の根レベルから湧き出て来るのを、私たちは何も考えず、ただボーッと待っているだけです。 知識社会に突入している「今」という過酷な大競争時代が、この両者をどれだけ強く求めているか? という必要性に、私たちは気が付いていない。という事です。



また翻って出版の話をすれば、著作物を書籍として世に送り出している出版業界のビジネスモデルが依然として基本ペイパーリードの売上型なので、 出版社はその自社経営の為に、より販売部数を伸ばせる類の本、売上高が上がる本。即ち、自社が潤い易いジャンルの本を作る事になります。

一方、著述家はより自身の社会的ポジショニングを向上させる事ができ、読者ファンを増やして自身をカリスマ化させた結果として経済的に潤える。といった内容を書き易い。 時として、アップセル・クロスセル・バックエンドも用意されている。という構造が出来上がっています。

そうなると、巷に流通している書籍は徐々に、著述家にとってはフロントエンド的な撒き餌として機能するマス需要の見込めるジャンルで、 読者の抱く(潜在的・課題的)需要に対して、即効性のある実用書(solution)を売る。結果として相似した種類の実用書が溢れる。

という潮流
が、出版業界に於いては支配的になっています。勿論、無料で膨大なコンテンツが見られるインターネットの登場により、 そうしたフロントエンドとバックエンドとを分けた戦略を採らなければ、出版社も著述家も生き残れない様な産業構造になって仕舞ったからです。 或いは、著述家は洗脳的とは言わないまでも読者に対して、独特の価値観や世界観を提示するような自己啓発書が多く出版されています。

そうして日に日に、自己啓発書に留まらず、流通する事になるあらゆるジャンルの本や書籍の総数は、日増しに膨れ上がっています。即ち、(潜在的)読者層からすれば、 時代が下れば下る程、「読むべき本」「マスト本」「これだけは必ず本」「これは知らないと恥な本」の数が、著しく増えて行っている。という状況を招いています。

このコントラストを解り易い例で言えば、近代以前に於ける東西の庶民にとっての教養書は、ヨーロッパ社会ならば、旧約聖書と新約聖書、そして、ギリシャ・ローマに書かれた古典を読み込んでおけば、一応は足りていた訳です。 東アジア社会ならば、四書(「大学」「中庸」「論語」「孟子」)、五経(「詩経」「書経」「礼記」「易 経」「春秋」)を読み込んでおけば、一応は足りていた訳です。さあこれが現代に於いては、どうなっているでしょう?という事です。

となると、既に本や書籍は余りあるほど膨大な数がある訳ですが、そうなった場合、価値観や世界観を提示する自己啓発書が百家争鳴している現状、 「じゃあ、どの自己啓発本が良くて、誰の考え方が良いのか?或いは、そうではないのか?見当が付かない。」


といった一般読者の状況を招いており、 玉石混淆で真贋や程度の見分けが付かなくなっている上、日々の仕事や勤めをしていれば、書店やAmazon等に腐る程ある自己啓発書の総数が多すぎて、自己啓発しようにも閉口したり辟易したり嫌気が差したりする事になります。 何故ならば、腐る程ある教養書やビジネス書や自己啓発書の読書は、限りある個人の膨大な時間を奪うものだからです。悪く言えば、時間泥棒であるとも言えます。

ただでさえ、マスボリューム層(ワーキングクラス)のミクロ経済が貧困化し、仕事でヒーヒー状態となって乏しい余暇しか確保でき無い中、無料で膨大なコンテンツが見られるインターネットが台頭している訳ですから、 ミクロ的な視点に於ける現代という時代の本質は、商売人(メディア・コンテンツプロバイダー)による、ごく限りある個人時間の奪い合いです。

故に、本来この状況で個人が採るべき戦略としては、「如何にして膨大な時間を失う事無く、知性を手に入れられるか?」「仕事や人生のハックが可能なポテンシャルある極少数の優れた書物を、玉石混淆から取捨選択できるか?」

「時として自己啓発書さえ読まずに賢くなれるか?」「さほど読書に時間を割いて居ないにも関わらず、仕事や人生に於いて高い成果を出せるか?」という事がライフハックをする上での非常に重要なテーマ
となります。

そしてこうした話は、出版社や著述家のインセンティブからすれば、公に書く事ができません。 「出来るだけ時間を使わない様にしつつ、上澄み的な価値ある極一部の本や書物を読んで人生をハックすべし。」と言えば、出版社や著述家にとっては、単に己の首を絞めるだけの自縄自縛を招くだけだからです。

故に、言葉や映像といったコンテンツにされる情報に於いては、常に発信者と受信者とが居て、その99%的な大半に於いて、発信者は己を利する為のポジショントークになり易いのである。 という事を肝に銘じる必要があります。この私とて例外とみなす必要はありません。そもそも遍く情報コンテンツというものは、発信者に何らかのインセンティブが無ければ、先ず以って発信される事は無い訳ですから。

勿論、自己満足や自尊心充足や大義名分や博愛主義をインセンティブとした公益活動やチャリティーも存在します。 そうした利他的行為が善か?偽善か?或いは、悪か?については、発信者が持っている内面のインセンティブ如何ではなく、 社会で起きた結果が多数者をハッピーにしたか否か?し得るか否か?という、事前予測的結果論に基いて測られるべきではないか?と私は考えます。

そういう訳で、多忙な現代人にとって膨大な時間をかけて膨大な本や書物を読むという事が、そこまで適切な行為だと私は考えていません。まずは読むべき本と読まなくても良い本を、見極める眼を持つ必要があります。 そして読書により、一つ学んだら一つ行動に移す。一つ学んだら一つ思案に耽る。という学びっぱなしでは終わらせない実践の工夫が大切だと考えます。

向上心ある者にとって現代という時代は、何よりも「時間」がボトルネックです。
この理由として、既に一定のお金を持っている人は、もっとより大規模にお金を儲けようとして、即ち、その飽くなき野心や野望によって、時間が無くなる状況に至りますし、

お金を持っていない人は、長い時間を労働役務に拘束される事で、より少しでも多くのお金を得ようとして、時間が無くなる状況に至ります。 故に、いずれにせよ経済合理性(カネ)を求める人は、どっちみち時間が無くなります。即ち、カネによって個人の時間が奪われて行きます。

つまり、「多忙な現代人」だとか「現代人は悠長に構えているヒマなんて無い」といった表記によって、ステルスマーケティング的に世の表側に流通しているメディアによって、 私たちが急かされ慌てふためかされ、経済観念(economic ideology)・経済合理性(economic rationality)といった、

イコール「カネへの意識」を、無意識的に刷り込まれている理由を突き詰めてみれば、 どっち道、貨幣経済の首根っ子を握っているプライベートな私人の集まりが、世界中の市民をカネの下僕や拝金奴隷にさせようと、悪意を以って企図しているからである。

先ずは世界中の一般市民をカネによって忙殺させ、市民の頭(脳味噌)をブラインド化した一極支配を企図しているからである。という事です。 仮にもし、私たちが何処までもカネを追い続けるという事を、いったん止めて仕舞えば、書物を読み、東西を見聞し、遺物を味わい、教養を深め、思索に耽り、表現に携わる。 といった、とてもとても自由で解放された余暇時間を見出す事なんて超簡単です。

その最たる例を言うなれば、一応は貨幣経済が浸透していた江戸・明治・大正・昭和といった時代を生きた、文豪や芸術家のライフスタイルを考えてみてください。 彼らは何年も費やしながら一つの作品づくりに取り掛かり、じっくりと腰を据えて、その制作過程を仕上げて行っていました。 カネを只管に追い続けている現代人の仕事ぶりとは、余りにも対極的です。しかし、やろうと思えば今でも何時でも可能です。

但し、こうした(文化的)ライフスタイルの実践は、ある意味では現代世界からの逃避的脱出と言え、カネが支配する現代世界の荒波と対峙して、 その荒波に負けまいとして、両手で櫂を漕いで行く様な強い精神性では無い。という事に注意が必要です。

現代世界に現前している過酷な現実、即ち、物質文明下での経済産業的な生存競争に於いて、真っ当に闘って勝とう。真っ当に闘って生き残ろう。と望むならば、 どうしてもゲームやルールに対する「ハック(乱暴にぶった切る・乱暴に切り開く)」という発想が必要になって来るのではないか?と私は思います。


さて自己啓発に係るライフハックの話に戻すと、時間をかけて膨大な本を読んだり、ネットサーフィンをしたり等といった事を長年していれば、 十分な運動ができずメタボデブになって仕舞い、健康や寿命が損なわれます。そうなれば、一個人が人生を謳歌する事はできません。

現代という時代は、個人が等しく有している限りある「時間」というリソースのビジネスによる奪い合いです。即ち争奪戦です。 テレビ・アニメ・ドラマ・マンガ・スマホ・ゲーム・SNS・YOUTUBE・膨大に蓄積されたネット上のコンテンツ、 膨大に存在する娯楽的享楽的な趣味群、これらはもはや数え切れないほど存在しますよね?

現代という時代に生きる個人は、自己を高め成長させる事のできる最も貴重なリソースである「時間」というものを、 これらの本や書籍やメディアやインターネットや数多ある趣味によって、散り散りに切り割かれて仕舞っているが為に、 十分な時間的余裕を作り、自己を高め成長させるという事が、個人の偏向や傾斜によっては、難しくなっている時代でもある。

つまり、「個人の志向性」の如何によって、天と地ほどの成長格差や人間格差や人生格差が付いて仕舞う恐ろしい時代である。 という事は、出自家柄の如何では無く、興味関心の如何によって、子供や若年や青年はタブララサの状態から、傑人にでもカスクズにでも見事に変わり果てて仕舞うのです。 ならば、傑人かカスクズかに振り分ける「分水嶺」は、じゃあ一体何処にあるのか?という事を、私たちは意識すべき
かと思います。

ところで、会社や公務へ宮仕え勤務をされて居られる方々にとって、たとえ寸暇を惜しんで沢山の本を読んだからと言って、 昇進や昇給のペースは決まっている為、ならば、どれだけのリターンが自己啓発書から得られるのか?という事を考えるべきだと思います。 何故ならば、大抵の場合、本を読むという行為からのリターンは遅効性である事が多いからです。

そして、もし現代という時代を生きるミクロ単位の個人に於いて、時間がボトルネックになっているとすれば、 限り有る貴重な時間というリソースの大半を読書(ネットサーフィンを含む)へと割けば、読書以外のベクトルが確実に疎かになる。 という事を意味します。そうなれば周囲からは、優先順位付けの下手な人という烙印を貼られ兼ねません。

人生は喩えて言えば、レーダーチャートの様な側面がある訳ですから、食事、仕事、睡眠、運動、職能スキルの向上、 生活上の雑務、消費活動、職場の懇親、旧友や仲間との懇親、家族との触れ合い、馴染みの取引先との懇親、馴染みの店への顔出し、病気の予防、 等々、

といった様々な大切な要素を満たして行かなければ、生物的・精神的・社会的・経済的、といった諸側面に於いて幸福には過ごせない訳ですから、そうしたレーダーチャートの様な人生の諸側面を満たす活動と、 読書やネットサーフィンといった知的活動とは、時間に於いてトレードオフの関係が成り立っている訳です。


しかし、知識社会に移行している以上、ステークホルダーや公への宮仕えをするサラリーマンだからと言って、 本を読んでいない。自己啓発をしていない。知性が高まっていない。といった態度は、100%仕事や人生にとって不利に働きます。

無知は致命的とも言えます。
何故ならば、「知」の有効活用によって生産性や効率性を追求しよう!とする「知」を重視する現代の御時世(知識社会化)がある中で、知性を高めていなければ、その人は周りと相対して劣後的なポジションに置かれる事になるからです。

その点で言えば、極めて矛盾しているかもしれませんが、沢山の読書は必須スキルである。という事になります。 「じゃあ、どうすれば良いの?」「時間的に無理じゃん。(*´Д`)」「しかも財布スカスカで、本を買うカネなんてねーし。(プンプン)」と思われると思います。

因みに私は、「如何にして膨大な時間を失う事無く、知性を手に入れられるか?」という点で言えば、 読書ハック、書評の活用、amazonの活用、思索、瞑想、個人体験、構図化、類推、他人の経験や智慧を謙虚に聴く、といった事が余りにも重要になって来るであろう。と思います。

この方法論については、この場を以って私が無料であなたにコンサルティングをするならば、「一を以って十を知ろうとする態度」が大切である。 「相手方の立場・視座・視点を推し量り、知ろうとする態度」及び「ピンボール的な脳内シュミレーション」及び「推論の妥当性」及び「メタ認知」が大切である。という事です。 そして「一を以って十を知る」為には、色々な個人体験を多く為している事が大切である。という事です。

その理由は、論語にある「学びて思わざれば則ち罔し、思いて学ばざれば則ち殆し。」という訓示からすれば、 推論という思考活動は効率性が最も高い訳ですが、現実世界という客観から常にフィードバックを受ける事の少ない「演繹的な思考回路」なので、 即ち妥当性を担保できず「殆し」だからです。

だから、喜怒哀楽を伴った色々な種類の個人体験(経験)を多く為す事によって、現実世界という客観から、常にフィードバックを受ける帰納的な思考回路を同時に持てる。という内面の態度が望ましい。
と言えるからです。



昭和以降の日本で起こっている悲しい現実として、テレビ、アニメ、ドラマ、DVD、マンガ、スマホ、ゲーム、SNS、膨大に存在するネットのコンテンツ、 膨大に存在する享楽的な趣味、といったものは、人間を程度の低い在り方へ留めようとする。享楽に依存させる在り方へと落とし込もうとする。

言い換えれば、カワイージー主義・ウマイージー主義・オモシロイージー主義・キレイージー主義・キモチイージー主義・タノシイージー主義、を標榜する企業は、 消費者(マスボリューム層)を虜にさせたり依存症にさせたり散財させたり、

といった、消費者である個人の貴い人生を馬鹿にしているかの如く、 しょ~もない程度の低い在り方に陥らせ、その人間の器量(人物の器)を卑小なものへと堕落させ、畢竟その末路は、イージー主義の虜となった人間(消費者)を潰して仕舞う(spoil)という傾向がある。意気地無し根性無しにさせる傾向がある。

という事について、私たちは絶対的に肝に銘じておく必要があります。私たちはそうした危険性を孕んだ消費財については、ジャンクコンテンツ・ジャンクプロダクトといったジャンク消費財である。という認識を持っておく必要があります。

因みに個人的な私見では、広義のジャンク消費財には、人工添加物、人工甘味料、人工調味料、合成着色料、合成保存料、遺伝子組み換え原料、農薬漬け、成長促進剤漬け、環境ホルモン塗れ、といった食品や食材も含まれるかと思います。

故に、口にするモノは取捨選択が必要です。 コンビニやスーパーでも買って良いものと悪いものとがあるのだ。という事です。そして仮に、ジャンク消費財による享楽を味わう場合であっても、この認識を保ったまま、 自己の心身が毀損しない範囲で、一時的に愉しめば良い。と私は考えます。 重要な事は、ジャンク消費財によって自己の心身を毀損させない。という事である。故に、「ジャンク消費財は飲んでも呑まれるな!」という事である。故と私は考えます。


こうして政府(現行体制側=被隠蔽貴族)や諸イージー主義の企業や商売人(ジャンクプロバイダー)が、私たち消費者を堕落させた結果、 膨大な数の個人がパチンカス、公営ギャンブル(競馬・競輪・競艇・オートレース)依存症、ネトゲ廃人ソシャゲ廃人、いい歳をした二次元美少女キャラ応援団、いい歳をした三次元アイドル応援団、 視聴型スポーツチーム熱血応援団、カウチポテト、スマホアディクト、といった、その個人自身が固有に持っている貴重な人生を生きられない。。

という悲しい末路を歩ませられる事になっている。 という構図を、分かり易い喩えで言えば、あくまでヒーローは現実には実在しない、ファミコンやプレステやDSやネットゲームに出てくる架空のキャラクター主人公であって、 そのゲームを消費者としてプレイしている個人は、その個人自身の人生に於けるヒーローにはなれない様にさせられている。

或いは、その個人自身が水を飲み、空気を吸って日々生きている「この社会」に於いて、ヒーローにはなれない様にさせられている。
という訳です。 こうした馬鹿げた構図が成り立っているという事を、私たちは各自が深く訓戒していない限り、ドス黒い政府や企業の手のひらで簡単に操られて、私たち市民は衰亡へと向かって仕舞います。

衰亡とはつまり最大の貧乏クジを引かされ、最大の馬鹿を見せられて仕舞う。という事です。 嘗ての小泉政権を裏で支えていた、対国民戦略部門が用いていた用語を使えば、限りある余暇を浪費し身銭を切って、ジャンク消費財を止め処なく活用し、 日々を慰労している様な人々こそ、市民のマスボリュームを構成する「B層(≒情報弱者)」である。という事になるでしょう。

例えば、米国に於いてテレビの箱は、「Foolish Box」や「Time Waster」と呼ばれ、テレビの視聴依存者はカウチポテトと呼ばれ、主体性に欠ける受け身な態度を揶揄されています。 この訓戒を書いた理由は、私の両親が昔から本を読まず批判精神に欠ける馬鹿正直で、民放テレビ番組漬けの無知蒙昧という、どれだけ年齢を重ねようと、死ぬまで程度の低い、器量の小さい小さい在り方のままに留まっているからです。

私自身は大人になって初めてそのヤバさに気が付きましたが、私の生まれた家庭にはテレビは何台も置いてあり、月間コロコロや少年ジャンプといった漫画雑誌や漫画単行本は、ジャンジャンと子供に買い与えているのに、 なんと活字で書かれた本や書籍や雑誌は、全くゼロと言って良いほど家庭には置いていないのです。

しかし、幼少期の子供は目の前に現前している環境を当たり前(自明)と思う為、子供心にはそのヤバさに、全く気付かないのです。 そうなると子供は、自然とジャンクメディア漬けになって仕舞います。(因みに、思春期以降の私にとっての両親は立派な反面教師として、その背中を見せる形で活躍してくれました。)

私自身は中学頃に何となく違和感を感じ、幸いにも難を逃れましたが、可哀想に私の弟などジャンクメディアの餌食となりました。 若年期に受けたジャンクメディアの多大なる悪影響によって、勿論、大人になった私の弟が、幸福な人生を歩んでいるとは更々思えません。 寧ろ、かなり苦労して生きて来た兄の目から見ても、成人後の弟は物凄く苦難に満ちた人生を歩んでいる様に見えます。

それもその筈。糞ジャンクメディアが無邪気な子供の頭脳を幼少期から侵し、学童少年を蒙昧で愚かな存在へと堕したからである。と私はそもそもの原因を認識しています。 その結果、成人後は兄弟共に「苦」です。何故ならば、学校教育や宗教道徳(≒二次的原理)にせよ、糞ジャンクメディア(≒虚構)にせよ、本質的には客観的妥当性を欠いた「虚構観念の集合」だからです。

故に、ジャンクメディアは世の陰にヒッソリと隠れている国内外の売国勢力が、政治家やマスコミを通じて、表向きには余りにもナチュラルで気付き難い愚民政策によって、 マスボリューム層の日本人が抱く観念構造に係る、草の根レベルに於ける亡国を企図した「毒入りの撒き餌(慢性中毒惹起型毒饅頭)◎◎(モットクイナヨ)」である。と言えます。


ここで一つ他愛も無い質問をしますが、「進んで読書をしましょう。テレビを見る時間は1日●時間まで。」と、生徒へ訴えかけていた学校の先生は居ましたが、 「進んでテレビを見ましょう。読書をする時間は1日●時間まで。」と、生徒へ訴えかけていた学校の先生が居ましたか?

それなのに生徒が学童期を過ぎ、年齢が成人に近づき財布に小銭を握って来ると、テレビ、アニメ、ドラマ、DVD、マンガ、スマホ、ゲーム、SNS、アーケード、ネカフェ、 膨大に存在するネットのコンテンツ、膨大に存在する享楽的な趣味、酒、タバコ、公営ギャンブル、パチンコ、パチスロ、クラブ、 と言った有料課金型のジャンク消費財(一部は広告収益による無料型)が、市民の個人生活の内へと怒涛の如く押し寄せて来ます。

しかも成人になると、「成人による全ての行為は自己責任です!(キリッ)」と謳う政府や諸イージー主義の企業や商売人が、 「金銭と時間とを浪費する上、知能も低下するリスクのある有料課金型ジャンク消費財に耽る時間は、1日●時間まで。1ヶ月●万円まで。」

といった、愛のあるパターナリズムなど死んでも口にしやしません。 寧ろ、「どんどん耽ってね。どんどん嵌まってね。どんどん溺れてね。(ニヤニヤ)」「どんどんワシらが作り出す慢性中毒惹起型毒饅頭を、もっとクレクレと貪り食い続ける依存症(ジャンク廃人)になってね。」 「どんどん搾取され収奪されて行ってね。」「”生かさず殺さず”のまま、死ぬまで吸い上げたるわ!」「刈り取った羊の毛皮を売る大ガネ儲けって最高!」(Allココロノコエ)

と、消費者側の嗜好を、リサーチャー・マーケッター・データサイエンティスト、等に分析させ、大規模な広告予算を投入し、秀逸なマーケティング戦略やリテンション戦略を駆使して煽りに煽って来ます。 即ち、学校の先生が訴え掛けていた戒めとは真反対の意図を以って、私たち市民を標的として、攻め絡んで来る訳です。

という事は、「テレビは1日●時間まで。」と自分自身が嫌われながらも、子供達への慈愛を込めて強く戒めてくれた学校の先生は善人であって、 政府 ( € ∀ € )や、拝金系メディア ( $ ∀ $ )や、諸イージー主義の拝金系企業 ( £ ∀ £ )や、拝金系商売人 ( ¥ ∀ ¥ )は、少なくとも善人であるとは言えない。
という事だと私は思います。

だから本来、二千年の伝統と由緒ある、世界でも稀なアジアの先進国に生きる私たちは、上述の様な人間の水準を堕させるジャンクメディアに、洗脳され馬鹿にされ続けてはならないのです。 何故ならば、たった一度しか無い時間の限られた人生を、ひたむきで真剣に生き抜こうとする意志(強く逞しき尊ぶべき自由意志)が、奪われるからです。

過去に私が見聞きした中(人間観察を含む)で重要な真実として、こうしたジャンクメディアに意志が奪われた人間の口からは「人生は長い」という言葉が出ます。 人生を賭け情熱を注いで、現実と闘って前へ前へ進み、何事かを為し遂げ、達成しよう実現させようとする「目標や目的が無いから」です。

一方、ジャンクメディアに意志を毒されていない人間の口からは、「人生は短い」という言葉が出ます。 人生を賭け情熱を注いで、現実と闘って前へ前へ進み、何事かを為し遂げ、達成しよう実現させようとする「目標や目的が有るから」です。

その他、国内外の各国政府がその各々にとっての対国民戦略として昔から採用している「3S政策」というものがあり、 これは、Screen(スクリーン=映像産業)、Sports(スポーツ=視聴型スポーツ産業)、Sex(セックス=性産業)を用い、

現実に起こっている社会問題や政治問題へ、大衆の関心を向けさせないようにする愚民政策
です。 おそらく時間を掛けてもっと精緻に調査すれば、その他にも、こうした水面下で潜在的に国民を馬鹿にする様な愚民政策の類は、もっともっと存在している事でしょう。 例えば、サブリミナル効果やステルスマーケティングといったものです。

平成生まれの若年の方々は、生まれた時からサブカルチャーが豊富な爛熟した社会で育っている為、 尚且つ、政府が採っていた「ゆとり教育」によって、その精神性が「はろー。やほー。うぇーい。(^0^)/」「ふぇぇ。わかんにゃぃ。。むりだょぉ。。もぅだめぽ。。」といった意識低い系となり、 政府や企業の戦略に大多数の若年が、まんまと嵌め込まれて仕舞っている。という状況を私は嘆き憂いています。

こうした政府による大衆支配を目的とした対国民戦略は、長い長い歳月を経てナチュラルに浸透したその自明性ゆえ、私たち青年や若年の大部分は気付けていない上、 実は政府や企業の手のひらで踊らせれているだけである。という事を、改めて意識する機会(極めて切実な問題として自覚する機会)が、余りにも少な過ぎる様に見えます。

しかも、テレビ家電という箱を活用したテレビ・ビジネスの隆盛に、旧来から政府が肩入れする事によって、与党が票田を確保する為の情報操作で潤い、総務省が電波管轄利権で潤い、 家電メーカー各社とその関連部品メーカーが潤い、家電量販店が潤い、大手広告代理店が潤い、テレビ局が潤い、芸能事務所が潤い、芸能人が潤い、

TVCMを流せる大企業各社が潤い、その大企業各社と取引のあるB2B企業が潤い、そして、それらの家族親戚が潤い、といった牧場(下々)に於いて、 飼い馴らされている居る羊の群れから、その毛皮を毟り取って上へと富を吸い上げようとする仕組みが、何十年も前から出来上がっているという訳です。

こうした政府による大衆支配の手口について、(私たちがなかなか気付けない)自然さや自明性が常に要求される理由は、 何事も「如何に相手に気付かれ難く、如何にナチュラルに、」という点が、最も不可欠な肝(most essential factor)だからです。

これを簡単な喩えで言えば、自分が相手(他人)を騙そうとする時と同じです。そもそも人間は他人を騙そうとする時に、その悪意ある意図がバレる様なマネをするのでしょうか?という事です。 仮にもし、悪意ある意図がバレて仕舞えば、そもそもの企図(欺罔行為自体+目的完遂)が、全くナンセンスなものになりますよね?

故に、意識しなければ気づく事は無いのです。だから私たちは、政府や企業が水面下で行っている観念支配・精神支配に気付き、この平成の世に於いて政府の施策として愚民政策が、 常に明々白々として現実に実施され続けているのである。という事を、強く認識しておく必要があります。

また2018年現在で、概ねアラフォー以上の年齢層が、権威主義と愚民政策の罠にまんまと嵌め込まれて来た。という話をすれば、 1910年に初めて映画作品化され、1954年にテレビ放送化され、2011年の最終回に至るまで、約100年も続いた時代劇の水戸黄門が、 日本の芸能文化史上、最長級のロングランを果たした理由について、

穿った見方をすれば、政府・行政・頂上経済団体・欧米諸国にとって、甚だ都合の良いものであったからであろう。「泣くのが嫌ならさあ歩け」という歌詞の労働脅迫的な意図(脅迫的使役)を汲めば、その様に私には思えます。

また「人生、楽ありゃ苦もあるさ」という歌詞で、昭和時代の庶民生活に於いては、楽よりも苦が圧倒的に多いという事は、誰しもが感じる所であるにも関わらず、 「(一時の)楽があれば、そりゃ苦もあるでしょ?(ズットタエテネ)」と言って、圧倒的な量の苦に対して、仕方なく忍従せざるを得ない状況を、サラッと紛らわしています。これには半ば悪意さえ、私には感じられます。

また「涙の後には虹も出る」という歌詞で、「涙を流して泣くほどの辛い事があっても、そう悲観するな。前向きに捉えろ。(ヨシヨシ)」と言って、慰労的奨励をしているという点からも推定ができます。 この立場を喩えれば、イソップ寓話「北風と太陽」に於いて、太陽が旅人の上着を脱がす為に採った手段と一緒です。所謂、市民に向けた太陽政策です。

どういう事かと言えば、「水戸黄門の存在意義は、葵の紋所が刻印された印籠に対し、不思議な事に江戸の世の末端まで、葵の御紋(徳川家)による秩序が浸透しているかの如く、 即座にチンピラ衆が平伏す。という権威を笠に着る好々爺にさえ下々は勝てないのだから、初めから文句など言わず素直に権威(権力)へ服従せよ。 天皇を頂点とする御国の為に、お前ら下々は隷属的なワーキングクラス(第四身分)として、使役され労役され続けよ。

という判り易い善悪のワンパターンを、日本人の潜在意識に焼き付けようとして、私たちの大半が盲目的で従順な権威主義に傾倒するよう、日本の国をハンドルしている権力によって、長期間に亘り意図されて放映され続けたものである。」 という解釈は、あながち間違い無いであろう。というか寧ろ、図星そのものであろう。という事です。


何故ならば、もし権力にとって都合の悪い内容ならば、約100年間もの長きに亘り、作品の上映や放映が継続されるという事は、絶対的にありえないからです。 その反証として、GHQによるプレスコード、ウォーギルトインフォメーションプログラム、花田紀凱氏が歴史の真相に切り込んだ「雑誌マルコポーロ廃刊事件」といった戦後の言論弾圧を鑑みると、 容易にその裏を取る事(反対立証)ができるからです。

となると、いくら憲法によって言論の自由が保障されているとは言え、その実質は・・? wikipediaによれば、「自由」という言葉の意味として、「自由(じゆう)とは、他のものから拘束・支配を受けないで、自己自身の本性に従うことをいう。」のだそうですが。。その実質は・・?という事です。

ここで重要な(哲学的)視点として、私たち市民にとって極めて大切なのは、 「(建前・形式・体裁は本質的な意味を為さ無いので留保しつつ)実質的にはどういう事か?(実質的意味)」という視点と、「そもそもどういう事か?(根源的発端)」という視点である。と私は考えます。

因みに、水戸黄門お決まりの筋書きを現実的に考えた場合、全く成り立たないのは、葵の御紋が刻印された印籠なんてものは、当時の木工師や彫刻師にかかれば、いくらでも贋作贋物を偽造できて仕舞う為、 印籠という物証だけでその所持者に権威が有るか無いかを裏付ける。という事なんて出来やしない。

いくら江戸の世の庶民とて、「それ偽物じゃないの?(¬д¬)」と、懐疑するくらいの分別はあるだろうし、そこまで無知蒙昧では無い筈である。何故ならば、たとえ封建時代を生きた庶民にしても最低限の分別が無ければ、そもそも江戸の経済社会が成り立ちはしない。
という点です。

故に、リアリストからすれば片腹痛い。というか、まともに見れた物語ではない訳ですが、それを指摘すれば、権威主義による思考停止に毒された人々から、ひた隠しにされ有耶無耶にされるか、屁理屈をこねくり回され反駁されるか、畢竟は野暮だと一蹴されるに違いありません。ただ論争としては、これは実質の敗北宣言と同じです。

日本の国をハンドルしている権力は、そもそも筋書きの核心について常識的に考えれば論理破綻が存在し、物語が成立しないという滑稽さを百歩譲ってまでも、水戸黄門という物語の存在が素晴らしく都合の良いものだった為、番組を何十年と放映放送したかったのではないか?

勿論その意図は、大規模で効率よく日本中の全市民に対し、権威主義を刷り込む事による愚民政策そのものであった。だからこそ、馬鹿馬鹿しくも毎度毎度、善悪二元論的に下々が服従をする結末の判り切った筋書きを、何百何千回も流し続けたのであろう。
という事でしょう。

個別性や状況性を踏まえない、仔細な因果や事情を汲まない、といった認識の単純化やワンパターン化は、イージー主義の骨頂であって、その実質としては、日本の国をハンドルしている権力が市民を馬鹿にしている。としか言い様がありません。

こうした事を踏まえると、日本人にとって馴染みの深い水戸黄門というテレビ放送番組は、紛れもなく私たち市民を弱体化させ、市民の精神的自由と精神的独立とを奪う「悪しき洗脳プログラム」であったのだ。という事が、断言できるかと思います。



取り分け私の過去11年間に於いては、主として外国為替市場に於ける取引戦略のリサーチャーを営んで来ました。その理由は、如何なる境遇に自分が置かれて居たとしても、「FX一つで何時か必ず人生を逆転させる。」と心に誓って居たからです。

故に、あくまで自称に過ぎぬ「なんちゃってリサーチャー」ではありますが、その真剣さで言えば、過去10年間に自営業として為して来た、膨大な国内海外ウェブリサーチ活動の努力は、本職でされておられるリサーチャー諸氏にも、量的には負けてはいないという自負はあります。

さて、それでは先にお伝えしました通り、ここから重い話をします。生き様として私個人は、これまでの人生で四度、再起不能となりました。その四度に直面した個人的な状況を一言で表現すれば、「やられた。。詰んだ。。死にたい。。」という様な状況です。

一度は21歳の時に身体的に詰みました。一度は28歳の時に社会的に詰みました。二度は31歳と36歳の時に経済的に詰みました。その詰みから這い上がる為、不惑を目前とするまで、苦労に苦労を積み重ねて来た様な人生を歩んで来た。という訳です。

私の過去18年間を形容すれば、茫然自失と諦念そして詰みからの這い上がりを、何度も何度も繰り返して来た様なものです。 ただ幸いだったのは、生物的な意味での致命傷は負わずに済んだ為、体一つ頭一つあれば何とか逆境を凌げたという点です。

概ね一回の詰みに於いて、その逆境をコツコツと克服する為に平均して4年くらい掛かった計算になります。
『孫氏』にある「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」を座右の銘とし、 主観(内面)を客観(環境)に合わせて、変えて行く以外に生き残る術はありませんでした。

元々田舎に生まれ育った私は、若い時分は性善説で博愛主義的な性格でした。即ち、素直で正直そして、相手の善意を信じたギブ先行でした。 両親はブルーカラーと専業主婦で、幼少期より家庭には娯楽番組か歌謡番組しか流れていませんでした。

非知識層の御家庭に本や雑誌や書物なんてものは有りません。活字は新聞だけです。 要するに、二十歳前後までは一言で馬鹿だった訳です。しかし、何度か惨憺たる人生の詰みを味わうにつれ、 内面や知性や精神性を陶冶し、鍛錬を繰り返す以外に、生き残る方途が無かった。という訳です。


この四度の人生の詰みというドン底を地力で克服した今となっては、こんな事も笑い話として少しは明るく語る事ができますが、毎回ある種の実質的犯罪とも言える事件に遭遇した過去当時の私は、深い深い絶望の淵に置かれていました。 一体私がどんな重篤な事件に遭遇したかと言えば、

施術に自身満々だった医者が、私の体に障害を与える医療ミスを為していながら、何年も責任逃れに終始し、患者だった私が地獄を見たり。。 ダチョウ倶楽部で言う所の、上島竜兵が熱湯に入らされたり、煮え湯を飲まされたりする「どうぞどうぞ的な嵌め込み」を周囲に居た人々がやったり。。

職場イジメの標的になっていた弱い方が、私の正義感を煽って泣きついて来て助けを求め、それで私がイジメ主によるイジメを批判し、その弱い方へのイジメの停止を求めた所、 かえって私自身がイジメ主の反感を買って、苛烈なるイジメの標的となり、私は壮絶な辛酸を嘗め、しかも後になって、その弱い方が私の目の前でやった「泣き」は、実は私を身代り的な生贄の如く利用した、単なる芝居だったと判明したり。。

はたまた、私自身による作業や苦労や信用で積み上げた、仕事の成果や利益や栄誉について、当時のパートナーらが全て横取りをしたり。。 逆にその一方で、当時のパートナーらが身勝手に為した過失や罪悪や汚名を、こっそりと水面下で私に全てなすり付けて来て、私の立場が矢面的な針の筵となったり。。
といった極めて暗愚で極めて蒙昧で極めて下衆な事です。

端的に言い換えれば、「悪の逃げ得」「加害のやり得」「濡れ衣」です。言うまでもなく、謝罪や補償や埋め合わせなんか一切ありません。何故ならば、その程度の人間だったからです。 私に再起できない程の害悪を及ぼした奴らの共通項としては、どいつもこいつも必ずみな「自分さえ良ければ良い。」と考えている(気質・志向性・性分といった意味での)人種でした。

故に、下衆悪人というものは遍く、自己中心主義の極み・利己主義の極み・唯我独尊の極み、であるという事です。これは「古今東西に於ける真理」だと思います。 エゴ最優先でエゴ以外の視点や意識が、ビックリする位に欠落している。という訳です。口を憚らず端的に言えば、下衆悪人=欠陥人間なのです。

この経験から私は、自己中心主義・利己主義・唯我独尊、即ち、生物的な情動を根源とする「エゴイズムへの無意識的な追求と邁進」こそが、 人間という存在を、下衆・醜悪・卑賤・暗愚・矮小・蒙昧なものに堕落させている!と、結論付けた次第です。この認識に限っては、「絶対的な真理である。」と断言します。


話を戻すと、何らの原資資本を形成できていなかった零細な立場でありながら、なんと私自身トータルで凡そ「億」のお金を奪われて来ました。。勿論、それ以外に定期の収入も生業も無いのです。 そして、マイナス一千万円という谷底からの詰み的スタートアップ。もはや万事休すとしか言えませんでした。。 世は広しとは言え、他に直面した者は居ないであろう類の固有的な状況です。

私にとってはその奪われたお金が、将来を経済的に凌いで行く頼りであり、オリジナルな原資資本となる筈でした。 それで私は十年前、片田舎の僻地で無産無業、尚且つ、借金一千万円となりました。まぁそれだけならまだマシなのですが、 人生の初っ端で身に災難が続けば、この世では否応なしに負のスパイラルへと嵌まる様になっている訳です。

誰しも程度の差こそあれ、同じような悔しい思いを何処かでされた経験がお有りだ思います。 といっても、ダメージの程度が軽ければ、一瞬だけ相手にムカついて水に流せば済みます。その位の些事は私とて、日常茶飯事に生成消滅し水に流しています。 先述した通り、ここで重要となる視点は、「エゴイズムへの無意識的な追求と邁進」について、その「程度」や「性状」に係る問題です!!!

しかし当時の私の場合、結果として、持てる致命的な社会的経済的リソースを奪われたり、重篤な身体的ダメージを受けたりした事で、実質的に人生が何度か詰んでしまった。。 「これからどうすれば良いの?(´;Д;`)うぅ。。」といった状況となりました。二十歳過ぎで医療ミスをやられた当時など、リアルに涙を流して泣いていた事もありました。

そうした詰んだ状況になりますと、大抵人間というものは、八方塞がりの現実や、苦痛や苦悩によって鬱になり、体を動かす気力さえ無くなり、畢竟、廃用症候群(ロコモティブシンドローム)になります。 基礎代謝が落ちて、筋力が落ち、手足は細くなり、太って腹だけが出るのです。 毎回その当時は、事件のショックやダメージで気力がなく、鬱で風呂に入れない。布団で寝ているだけ。寝ていても悪寒がする。

出て来るのは、実質的な犯罪とも言える事件に、不運にも遭遇して仕舞った悔しさと怒りと恨み。 この世この世界に命を受けて、長い人生を生き抜く事は、基本的に厳しい訳ですから、 どんな人にも失敗や被害や理不尽といったネガティブな事象によって、少なからず苦しんだ経験があるならば、心にダークサイドというものができると思います。

そして仕舞いには、どんなにもがき苦しんでも、そう安々とは抜け出せられないドン底や逆境から逃れられる、唯一にして究極の手段である「死」が脳裏をよぎり、 絶望的な状況のさなかにある内は、何ヶ月も日々「死」が脳裏から離れなくなります。 だからこそ、日本の年間自殺者数は、毎年3万人以上もいるのです。 毎年3万人以上の日本に住んでいる人々が、物凄い大変な痛みを伴って自分から、その大切な命を断っているんですよ?

まともな人の感覚からすれば、できる訳が無い様な恐ろしい自傷をして、こうした今だって沢山の人が、自ら望んで死んで行っている訳です。 せっかくお母さんのお腹から生まれ出て、何年も何年も掛けて、一人前の大人へと育つ事ができたのに。何故、死ぬ事になったのだろう。。余りにも悲しい現実です。



警察庁の公表している遺体の確認数を集計した死体取扱状況によると、近年警察が把握している遺体数は、毎年16万体~17万体で推移しており、 うち8割が変死体との事なので、14万体が変死しているという事からすれば、

おそらく日本の年間自殺者数3万人は、あくまで政府発表の管理された数字であって、 上記14万体の変死者に含まれている非公表自殺者、及び、失踪者・行方不明者等を含めれば、実際には3万人よりもっと遥かに多い。という民間のレポートもあります。


従って、日々を元気で暮らしている方にとっては、なかなかイメージし難いかもしれませんが、現状世界でも指折りの先進国である日本に生まれたとしても、 この世に命を受けて長い人生を生き抜くという事は、それほど厳しい事である。という事だと私は思います。

毎年3万人以上もの日本に住んでいる人々、上記の統計を踏まえると、下手をすれば、毎年10万人規模の日本に住んでいる人々(当然の事ながら、私たちのご近所に住んでいる方々も数多くいる事でしょう)が、 自らの身体や身体機能を傷つける。という想像を絶する程の痛みを伴って、自分から大切な命を断っている。という事実がある。

にも関わらず、それなのに、どうして日本社会には、イイ話・オモシロ話・キレイな話・ウットリする話・ウルウル・何でもポジティブ・ワハハハ・カワイイ・カッコイイ・ホルホル・ファンタジー・フィクション・ ○○ジャパン・○○ニッポン、といった「明るく楽しく心地よい情報」ばかりが、表向きに蔓延して仕舞っているのか?

どうして日本社会には、私たちに本当の現実を見せてくれる様な、辛く・厳しく・暗く・悔しく・理不尽・不条理・不当性・遣る瀬無さ・憂い・憤り・怒り・悲しみ、 といった私たち自身の生活と将来にとって、私たちが本当に直視し、向き合わなければならない筈の情報(陽の目を見ぬ社会問題の数々)は、表向きに流されていないのか?

どうして視聴している人間の脳内に於ける、既存信憑に沿った予定調和を満たす類の情報ばかりが流されているのか? どうして視聴している人間の脳内に於いて、認知的不協和を生む類の情報は、殆どと言って良いほど流されていないのか?


勿論その答えは、政府(現行体制側=被隠蔽貴族)や大企業(大株主)や頂上経済団体やマスメディアが流している、国民感情を支配する為の戦略である事は言うまでもありません。 もしそれらを流せば、政府の落ち度である失政が露わになり、政党や政治家にとっては自縄自縛となるからです。

故に、一部の集団の利害を代弁する私的なパーティーに過ぎない、政党や政治家や頂上経済団体の間では、合理的に考えて、彼ら相互の間に於いて、 問責詰問しない同盟、指摘糾弾しない談合、蒸し返さない協定、掘り起こさない盟約、それは言わないお約束。 といった密約の数々が、何年も何十年も前から水面下で交わされていて、

お互いの為にそれらの密約を固く守り、政党や政治家が握っている既得権益や極秘情報の数々を、同業の内輪仲間にとっての互恵となるよう維持保全(隠匿隠蔽)している。と考えるのが妥当でしょう。(ex.宗教法人非課税特権) そして、それらは何時までも一般市民の面前に、開示される事はありません。

ある意味、つるんだ内輪仲間に限って大いなる互恵となる様な、悪事悪行の対外的な(対市民への)実施という点が、 人類歴史の太古より続いている「王制貴族制(gurus)」の本質である「縁故主義(nepotism)」です。
簡単な英語で表わせば、「we are we. you are not us.」「we are guru. you are sheep.」「we are elite. you are slave.」「we always fools us.」

漫画ドラえもんに出てくるジャイアンの口癖で言えば、「お前の物は俺の物、俺の物は俺の物」といった所でしょうか。 ある意味、現代に於ける「明るく楽しく心地よい情報」の機能性としては、太平洋戦争時に於いて帝国大本営や大政翼賛会が、 主として(御用)新聞を通じて、国民に対し流していた情報操作(観念支配)と同じ類の「対国民戦略」という訳です。 結果として太平洋戦争で日本はボロ負けしました。

しかも、太平洋戦争を起こした責任について、日本や日本人が悪かったからだ。という他所から与えられた歴史が戦後に作られて、それが公の教科書になりました。 戦後の日本は焼け野原になり、戦後に生きた日本の庶民は、今で言う北朝鮮に生きる貧民の様に、まともな読み書き教育さえ受けられない程のド貧民で溢れ返った訳です。

こうした状況がほんの70年前頃に、当時の私たちの身の回り起こりました。ならば、「こんな話は自分には関係が無い。」と、ごく無頓着に思っている「あなた」に問いたい? まず生きては戻って来れない戦地に兵士として駆り出され、家庭は一家の男手を失い、女手は工場へ駆り出され、 撒かれた新聞によって、「戦況は有利に進んでいて、この戦争には勝てるぞ!」といった国威発揚や勇猛果敢な血気にまさる情報が流されていた筈が、、、

最終的に全国主要都市の市街地は、家屋や建物は全壊し真っ黒焦げの焼け野原となり、 家庭も都市も田舎も被害甚大で、生きるか死ぬかを彷徨うド貧民が全国に溢れ、最も馬鹿を見て経済的にも肉体的にも精神的にも国際社会的にも、超スーパー弩級の大損をこいたのは何処の誰ですか? という事の現代版アナロジーが、私があなたに問い、本メッセージで伝えようとしているテーマ主題です。


しかもその上、当時の私たちは国際社会から戦争責任という過大な濡れ衣まで着せられた挙句、「俺達は戦勝国民だ」と名乗り、 渡りに船のGHQからお墨付きを得た日本人では無い人々によってヒエラルキー頂上団体や日本の国そのものは占領されました。 そして、ちゃっかりと抜かりなく焚書坑儒の類も徹底的に行われました。

公職追放で右が野に下り、レッドパージで左が野に下った結果、戦後世の表舞台に登場する代議士や言論人は、 白人様の牧羊犬となった合同保守が撒く、権威主義(米国・象徴天皇制憲法・学歴・職歴・偏差値・メディア・芸能界・有名人・大企業・中央官庁)に、尻尾を振って服従するイエスマンの様な人ばかり残りました。


喩えるならば、「王様(君主)=天皇」、「貴族(特権階級)=世襲議員・薩長土肥末裔末派・旧華族・財閥財産家・その他ある大和朝廷来の名家名門」、 「聖職(観念支配)=伝統宗教・新興宗教・メディア人・芸能人・(御用)学者・(御用)教育者・(御用)言論人」、 「第三身分(管理監督)=役人・企業人・士業・医業」、「第四身分=それ以外」、といった社会構成員による、戦後フューダリズミック体制(feudalismic system post ww2)です。

ちょっと熱くなって過ぎ去った時代の事について話し過ぎました。すみません。しかしながら、 こうした「綺麗な心を持つ人間が、常に馬鹿を見る!という構図の愚」を、私が強く主張する理由は、 私自身がその個人版アナロジーを、過去18年に渡り、実体験として味わって来たから。に他なりません。

即ち、素直で正直で優しいという綺麗な心を持った若年者が、嵌められたり騙されたりする事で、理不尽に熱湯に入らされたり煮え湯を飲まされたり、 成果や利益や栄誉は下衆悪人によって全て横取りされたり、過失や罪悪や汚名や濡れ衣は下衆悪人がなすり付けて来たり、して仕舞う。

つまり、「悪の逃げ得」「加害のやり得」をされる。 そして当然の如く、謝罪や補償や埋め合わせなんか一切ない。という「やった側(悪)とやられた側(善)に於ける必至の構図」と酷似している訳です。 一言で言えば、「ミクロでもマクロでも、常に構図は同じ!」という意味です。


真に私が伝えたい事は、インターネットの普及した現代という恵まれた時代に於いて、 「私たちは長期の時間を経た自明性によって、気付き難いマイルドな洗脳や情報操作を、さり気なくさり気なく施されて観念的に支配された挙句、 最終的に最も馬鹿を見て超スーパー弩級に大損し、這う這うの体になって、泣きを見る愚かな存在へと堕ちてはならないのです。」

私は何処か別の時代世界に起こり得る様な、他人事を言っている訳ではなく、現に今、日本のそこら中で日常茶飯事に行われている事と、 日本に住む実質的な一部特権階級層以外の、大多数を占める一般庶民である人々や、その一般庶民の子孫が迎えるであろう末路に対して、強い警鐘を鳴らしています。


かなり熱くなって仕舞いすみません。激しい言葉や歯に衣着せぬ非礼をお許しください。ただ私は、 必死に保身を追求する官僚機構の様な「当たり障りのない波風を立てない在り方」が、現代日本に生きる私たちにとって、望ましい態度であるとは、更々思っていないのです。 何故「当たり障りのない波風を立てない在り方」が望ましくないかと言えば、ならば下記の様な事柄について問いましょう。

例えば、私たちの人権は家庭や学校や職場や雇用に於いて、バイオレンスやハラスメントを受ける事なく、実質的に護られていますか? 私たちの言論の自由や表現の自由といった精神自由権に留まらず、憲法で謳われている自由権や生存権や基本的人権は実質的に高まっていますか?

政府や自治体の所得再分配機能によって、私たちの不平等は実質的に是正されていますか?私たちの世代間格差は実質的に是正されていますか? 子供たちの教育機会均等は高まっていますか? 私たちはきちんと生活保護や失業保険や健康保険や公的年金を受給できていますか?

起業家はきちんと銀行融資や公的補助金や公的助成金や、インキュベーティブなシードマネーを公私から受給できていますか? 児童やその親といった家庭問題は改善していますか?ブラック企業は減っていますか?労働基準監督署は実質的に機能していますか?

将来に亘ってフィジカル攻撃・サイバー攻撃・(目に見えぬ形での)対日占領・(目に見えぬ形での)対日兵器設置・ 対日人海戦術的人口侵略・対日焦土化、等に対する安全を確保できていますか?将来に亘って食料とエネルギーの自給を確保できていますか?


「犯罪の逃げ得」「加害のやり得」を陰でする様な、潜在的な水面下にいる下衆悪人やイジメ屋に対して、警察は実質的に機能していますか? 日陰や水面下で下衆悪をやっている人物や団体の大部分が、実質的に摘発され捕縛されて、司法によって裁かれて受刑していますか?という事です。

苦しんで来た誰か或いは、今苦しんでいる誰か或いは、志を持った誰かが、公に向かって声を上げないと、この目の前にある現実は変わりません。 誰かが勇気を持って声を上げなければ、日本の経済構造、日本の社会構造、日本人の観念構造、日本が置かれた国際社会構造、は変わらないのです。



インターネットの世界でも、世界の遠隔地にいる見ず知らずの者同士が、経済取引をする様な構図になった為、 インターネットの無かった古い世界よりも、取引相手への債務不履行や不法行為が容易になり、「犯罪の逃げ得」「加害のやり得」が増えました。 つまり、2000年頃からインターネットの普及によって徐々に人類は、「犯罪の逃げ得」「加害のやり得」となるケースが、著しく増えた新しい世界に暮らしている。と言えるのです。

例えば、金融業界やネットビジネス業界等を見れば一目瞭然でしょう。 2018年現在がインターネットの普及した新しい世界であるとは言っても、インターネットの無かった昭和期の様な古い世界と比べ、この2018年という現在は、人類にとって良い世界になっていると言えるでしょうか?

インターネットの無かった古い世界と比べ、インターネットとスマートフォンの普及によって、リアルに人と人とが対峙して深く話し合うといった事が少なくなり、人と人との関係が希薄化した様に私は思います。 また、インターネットや金融取引を基盤として発展したニューエコノミーの台頭、そしてビットコイン等のデジタルクリプトカレンシーの台頭、

という二つの革命的事象は、インターネットの無かった古い世界と比べ、 何時でも、世界中にいる誰とでも、即時に契約をし、即時に対価を支払い、即時にサービスを受ける、といった経済取引の効率性を追求した究極形が実現された。と言って差し障りはないと思います。

その結果、あらゆる産業で「効率性を追求する」というビジネス潮流が加速し、生産性向上が高らかに謳われ、競争優位を確保する為の利己主義、そして効率性の先にある拝金主義、が個々人に於いても支配的観念になった様に感じています。

従って、社会の隅々にまで、効率主義、利己主義、拝金主義、が席巻し、その観念ゆえに「犯罪の逃げ得」「加害のやり得」となるケースが増えて仕舞ったまま、鬱屈とした状況が是正されない。という今現在の社会構造がある。という事になります。

それなのに、政治家や国(司法・警察・消費経済行政)の実態は、インターネットの無かった古い世界と比べ、殆ど変わっていないのです。即ち、予算対効果や人件費対効果に基づく事案処理によって、立件コスパの悪い犯罪的加害の大半は野放しです。

だからこそ、人を傷つけたり、人を騙したり、人から奪ったり、そうして人を踏み台して、人様に大ダメージを与える行為を為したにも関わらず、更に、そうした悪人特有の悪知恵によって、 そうした悪行為を、有耶無耶にしたり、誤魔化したり、取り込んだり、事後洗脳したり、雲散霧消したり、トンズラしたり、過去を書き換えたり、過去を捻じ曲げたり、過去を消し去ったり、

する事によって、 実質的に、犯罪の逃げ得をした。加害のやり得をした。といった理不尽極まり無い状況が、現代世界に於いては増え続けている訳です。という事は、泣き寝入りをする社会的弱者の絶対数は減ってはいない。という事を意味します。

だからこそ、今現在もイジメは学校に於いても企業に於いても、相も変わらず無くならないのです。そればかりか、「イジメは自然現象だから仕方ない。」「イジメられる方が悪い。」といった犯罪的加害や悪を、 容認や是認するかの様な主張をする人も居ます。しかし、過去に私が出会った人や、話を聞いて来た人の中で、「イジメで苦しんで来た。」「今も日々イジメで苦しんでいる。」という人は少なくありません。

学校で受けたイジメで人生が詰んで仕舞い、そのトラウマで対人恐怖症になり、社会に出られなくなり、今も収入を得られない為に、貧困に苦しみ続けているという人も、私は数人を知っています。 友達の少ない私でさえ、イジメによって人生が詰んで苦しんでいる人を数人は知っている。という事は、日本全体で見た場合、どれだけの膨大な数の人々がイジメで人生が詰んで、今もトラウマに苦しみ続けていると言うのでしょうか?

そして、イジメという社会問題に限った論点でさえ、その困苦を忍従せざるを得ない人々は膨大にいるわけですから、 ましてや、大小様々な「犯罪の逃げ得」「加害のやり得」となった事件、本来ならば、市民生活にとって重大な悪影響を及ぼしている、社会問題として扱われるべき事件の数々については、

先進国と呼ばれている現代の日本に於いてでさえ、想像を絶するほど途方も無い夥しい数が、市民の巷間にあって絶えず生成され、 その殆どが泣き寝入りとなって消滅している。と合理性を以って常識的に考えられるでしょう。いわば、一億二千万人の魂が日々叫び続けているのです。


例えば、「●●は嘘だった。」「●●が自分を騙した。」「●●が自分から奪った。」「●●が自分を裏切った。」「●●が自分を踏み台にした。」「●●が自分を陥れた。」「●●が自分に貧乏クジを引かせた。」「●●が自分を酷い目に遭わせた。」 「うぅぅ。口惜しい。でも、やられたダメージが大き過ぎて、もう生きる事が苦しくて、もはや立ち上がる気力さえない。死にたい。。」

といった惨憺たる状況を私は指しています。 一般に、被害を受けた側・やられた側というものは、全方位的な側面(社会面・経済面・精神面・身体面)で、ボロボロに弱体化して仕舞い、 人目を憚る様になり、表の言論空間へ声を上げ、表の舞台へ姿を現す事ができなくなるのです。

しかし、世の殆どの場合、この●●が公的なペナルティーを受ける事は至極稀です。大抵は「逃げ得」「やり得」になります。 日々世の中で生成され消滅している大小有象無象の犯罪的加害行為全体からすれば、立件され公的なペナルティーを受けている事件の方が、圧倒的に少ない訳です。

その意味では、立件されて相応の公的なペナルティーを受けている犯罪者や加害者は、まだマシです。まだ「マトモな方」です。 私たちの社会にとって重大な問題は、「犯罪の逃げ得」「加害のやり得」を為したまま、何時まで経っても、相応の公的なペナルティーを受けていない「マトモでは無い方」です。

そして、私たちが社会問題を論じる上で、焦点を当てるべき「本当の悪」は、この「マトモでは無い方」です。 何故ならば、「マトモな方」は公的なペナルティーという因果応報(悪因悪果)を甘受しているからです。その反面、「マトモでは無い方」は因果応報(悪因悪果)を甘受してはいないからです。

「犯罪の逃げ得」「加害のやり得」に於いては、仏教やイスラム教やキリスト教といった伝統的宗教の教えでは、説明する事ができていない 「悪人自身にとっての悪因"善"果」を、見事なまでに実現していますよね?この「悪人自身にとっての悪因"善"果」こそが、世の不条理や理不尽の根源なのです!!! この部分の理屈は非常に重要ですよ?私の発意がお分かりでしょうか?


従って、いくら先進国家日本であると雖も、その実質は相も変わらず、理不尽や不条理や不当性や、 遣る瀬無さの蔓延る「憎まれっ子世に憚る」「盗人猛々しい」「跳梁跋扈」といった前近代的とも言える「野蛮な世界」となっている訳です。 この主張の意味が理解できない人は、フェルミ推定を勉強してください。

無論これが小事や些事であれば尚の事。先進国と呼ばれている現代の日本に於いてでさえ、 犯罪加害行為を為した●●といった有象無象の連中に対して、通報を受理し、摘発し、令状を発行し、捕縛し、訴追し、裁定し、求刑し、拘束し、禁錮させ、服役させ、更生させ、 といった遍く下衆悪人に厳格な公的ペナルティーを課する。という仕組みにはなっていません。警察は「民事不介入の原則」を、上手な口実として用いた実質的な野放しです。

しかし、政治家や国(司法・行政・警察)は、この野放しを改めようとさえしません。それによって、何時しか私たちは、下衆悪人の野放しが標準であるかのような錯覚に陥って仕舞っています。 私たちが深刻に重く受け止めるべきは、実質的に網目の粗いザルとなっている国家制度の綻びや、日本の国家行政が望ましい姿としては、殆ど機能してくれては居ない。という深刻で闇の深い現実なのです。

私たちが棲む身近な社会の本質が、こうした「野蛮な世界」である限り、常に強者が割得をし弱者が割損をする。という構図が抜本的に是正される事はありません。
そんな中で、エゴイズムと拝金主義に毒された自己中牧羊犬の数々が、オラオラと大手を振って表市中を練り歩いて居る。という訳です。

予算対効果という安いコストパフォーマンスで、出来る限り多くの犯罪を予防したいからこそ警察は、「警察24時」といった番組をテレビ局に制作させ放映させます。これは暴力団の「入れ墨」と似た様な機能性があります。

要するに、どちらもイメージ戦略によって威厳や威光を高め、コスパ良く犯罪の発生率を抑止しようとする試み。潜在的な見込み敵者(犯罪者予備軍)を圧倒しようとする試み。 且つ、警察部隊の活躍するテレビ番組を視聴する事で、無邪気なまま警察という組織に憧れる類の、真面目で忠誠心ある警察官候補となる見込み層をコスパ良く育てておこうとする試みです。

そしていざ国(司法・行政・警察)が、マスメディアと組んで摘発を全国放映する場合、証拠が確実で立件が容易な犯罪、善悪の判り易い犯罪、重大犯罪、著名有名人(著名有名団体)による犯罪、等が主になります。 勧善懲悪や野次馬へと傾く市民からの高い視聴率が取れ、良い広告収入が見込めるからです。その最たる例がホリエモンの様な、国家が社会的制裁を為す上でも好都合である、象徴的な「示し」と成り得る影響力が大きな人物の摘発です。

たった一事件の摘発と制裁的処罰によって、事後はレバレッジ的な抑止効果が効くからです。 この裏付けとして、日興コーディアル証券・オリンパス・東芝の粉飾会計の方が、圧倒的に大規模でしたが、お咎めの程度という点では、ホリエモンとライブドア社へ課された処罰が、この四者の中では最大だったからです。

また翻って、被害者は泣いているが善悪の判り難い犯罪、加害者や証拠が雲散霧消し立件が困難な犯罪、被害者は泣いているが重大性の低い犯罪、については、その大半が、被害者の泣き寝入りで終わっています。 そうなれば泣いている被害者は、仏教的な因果応報論を持ち出して、「あんな糞野郎は何時かバチが当たるから。」「この世は天網恢々だから。」と、心中で悪態をつき、気休め(気慰め)をする程度くらいなものでしょう。

即ち、下衆悪人から害悪をやられた被害者や弱者というものは、弱肉強食の原理が根底にある現実に対し、酸っぱい葡萄の様なルサンチマンによって、 御都合的な観念のバイアスを掛けながら生きて行くしか、口惜しい口惜しい気持ちを紛らわす方法が無くなるのです。

こうした日本の国家行政が、実質的には国民を納得させられるほど十分には機能していない。という分野は、警察による犯罪予防や犯罪摘発といった治安維持に限った事ではなく、 貧困格差是正、不平等の是正、生存権の保障、自由権の保障、中小企業育成、雇用側と非雇用側の利害対立の調整、

子孫再生産の奨励支援、幼児学童保育の施設数及び保育者数、公立学校教員数、農業振興と食料自給、産業保護的な貿易協定、 といった総じて、日本の弱い立場にいる人々を守ろうとする、諸分野に於ける施策の実施に於いても同様、十分には機能しているとは言えない訳です。


何故ならば、どんな時代であれ殆ど常に時の政権は、強い立場にいる人々や、強い立場にいる企業群からの大規模な支援を受けている訳ですし、 日本が大統領制でなく議院内閣制である以上、諸政党が利害対立し、百家争鳴している様な分野や論争点に於いては、

国内で叫ばれている主張が、上下左右に揺れているという事になれば、大統領制国家の様に鶴の一声で国家行政が大きな施策を速やかに実施する。 といった事は、そもそもが議院内閣制という政体構造の点で困難、或いは、ハッキリ言って不可能だからです。よって、弱肉強食的な世の在り方に対する是正については、そもそも限界がある。という訳です。




かのモリカケ騒動や築地市場騒動で日本が国際社会に露呈している事は、 政治とカネ・官業癒着・政業癒着といった問題が常に最優先で槍玉に挙げられ、牧羊犬として機能しているマスメディアは、 大衆の情緒や感情を煽るポピュリズムに終始している為に、日本という国家は施策の実行力が甚だ乏しいのだ。という民主主義の愚鈍で衆愚な側面です。

そしてもし仮に、日本の政治に何かを実行させようとする場合、先ずマスメディアが必ず大掛かりな陽動作戦を起こし、市民の興味関心をそらせ、 市民がどうでも良い話題にウツツを抜かす状態を作り上げ、市民の目を眩ませブラインド化し、政策中枢(政局)への関心を下げ、その間に何時の間にか、陰に隠れてコッソリと重要法案を通過させる。 という姑息で卑怯な手段しか取れ無いのだ。という事です。

つまり、国際社会から確実に認識されている事は、日本という議会制民主主義国家は、速やかな実行力には著しく劣る。 主に、上記の如く売国的な法案成立過程、及び、売国的な金融市場操作(ex.異次元緩和日銀・郵政民営化)を除いて、思い切った主体的な国家政策が公明正大に取れない。実質的に自らの意志では、殆ど何もできない国家である。という事です。

最も的確な言葉で表現するならば、寡頭牧羊犬制名目民主主義傀儡国家である。という事です。その背景的裏付けとして、万年固定的与党野党体制とポピュリズムとを利用した対米属国体制が、何時までも継続しているだけだからです。

この状況を前提とした現代ヤマトの國に於いて、高らかと掲げられている議会制民主主義の機能性(実質的役割)というものは、「(互いに反目し合う市民にとっての)漁夫の損」であり、(遠方傍目に居る世界的覇者にとっての)漁夫の利」である。という事です。

その意味では、現代ヤマトの國に於ける戦後民主主義の本質は、隠蔽された闇の現行国家体制(寡頭牧羊犬制=隠蔽貴族制)という肝心要の本丸を盤石に温存する為に作られた、 城壁・外堀・石垣・土塁・土塀の様なプロテクター(protecter)である。という事です。その防衛力の強固さによって、(本来的な意味で言う)リベラルな左派を、本丸へ寄せ付けません。

その事を容易に裏付けられる話として、世界史(world history)を振り返ってみましょう。相互に大戦争をやって完全敗北を喫した側の国家に於いて、その体制と主権とが、そのまま維持温存された。 という例が、未だ嘗て人類史上あったのでしょうか?

という事を、あなた御自身のセンスを用いて考えてみてください。 日本は第二次世界大戦に於ける敗北敗戦によって、天皇主権から国民主権に変わりはしましたが、どういう訳なのか、戦勝国が戦敗国の君主君公(天皇)を、 例えば、嘗て仏ブルボン朝であった様なギロチン処刑(対外的な見せしめ)によって、排除した共和制(Republic)には成っていません。よね?

つまり、いくら天皇陛下の対外的性格を象徴的存在へと変貌させた(deformed)とは言え、戦後日本は引き続き、 天皇を君主とする象徴天皇制(Symbolic Emperor System)イコール変形君主制(Deformed Monarchy)の君主国家である。と客観性を以って、断定する事ができます。

大日本帝国時代に天皇大権として、国務大権・統帥大権・皇室大権を有し、最大の戦争敗北責任(国家破滅・国土荒廃・国民死傷)を負う筈だった、 天皇制・皇室・宮内庁・薩長土肥・旧華族・財閥財産家は、その実質としては、戦後もぬくぬくと温存され続けています。それは何故か?

その答えを証せば、神道という国家教が祀る八百万の神に依拠した、変形的な王権神授説を用いた天皇制そのものが、明治以降の日本人にとっては、 問い疑うまでも無い自明性、或いは、問い疑ってはならない禁忌(taboo)として扱われているから。という事です。 つまり、私たち日本人の大多数が、天皇制(君主制)そのものを無誤無謬(無意識的議題提示接触禁忌)と見做しているからです。

戦前戦後の両時代を通じ国家的規模で、マスメディアによる天皇制に対する無誤無謬の情報操作が施された事によって、私たち日本人にとっては天皇制の存在こそが余りにも当たり前過ぎて、 平成の世の市民からも気付かれていない為、明治の世から只管にずっと天皇制(君主制)を巧みに利用している一部特権階級(貴族制)による超巨大利権(超巨大既得権益)の聖域(Sanctuary)となっているのである。という事です。

つまり、この極東アジアに位置するヤマトの國にとって、伝統的に八百万の神と交信をするシャーマン(shaman )を起源とする天皇という伝統的に最もパブリックとされる存在を、 欧米の白人と結託しているプライベートな集団(一部特権階級)が、天皇皇后(皇室)を御輿(神輿)として、国民支配の正当性を得る為に利用活用する事によって、

彼らもまた天皇と同様、 恰も1000%ホワイトで由緒正しきパブリックな存在であるかの様に、マスメディアによる情報操作や演出効果によって、 骨の髄まで教育され洗脳され切った(残念な思考回路を持つ)大半の市民から見做されているに過ぎない。という事です。

そして戦前と相も変わらず、戦後も引き続き、天皇制の盤石的な温存が実現できている理由は、合理的に考えて、 天皇制・皇室・宮内庁・財閥・薩長土肥藩閥末裔末派の界隈と、欧米の白人(western whites)との間で、プライベートな談合・協定・盟約といった類が交わされているからである。 と推定するのが妥当であろう。と私は思います。

それ故、欧米の財閥によって懐柔された(象徴)天皇制下にある戦後日本の実質的な国家体制は、 天皇界隈及び薩長土肥藩閥末裔末派及び旧華族及び閨閥門閥及び頂上経済団体及び大企業大株主及びその周辺の財閥財産家が、寡頭牧羊犬として機能している名目民主主義傀儡国家である。と言える訳です。羊牧場の主は欧米の白人様です。

勿論、(建前上は一応)議会制民主主義である以上、表面的には手を替え品を替え、表に出る顔や看板や標語や名称はどんどん変わる訳ですが、その実質は、 盤石固定体制の中で見た目の公正公平(感)を演出する為に、敢えて反目させた上下と左右とが演じる、茶番をやらせているだけの事である。という訳です。

何故ならば、戦後の彼らがやっている事は相も変わらず、ずっと同じですよね?戦後いくら彼ら同士が争ったとしても、基本的な大局大勢(国家体制)は全く以て不変ですよね? ならば、彼らの上には一体誰(どんな人々)が、漆黒のVIPチェアーに踏ん反り返るかの如く、人類の覇者として君臨して居るのでしょうか?という事です。

それにしても全くと言って良い程、誰一人として「君主制よりフラットな共和制の方が良くね?」「別に君主制である必要って無くね?」 「単に君主制って国家に特権階級・ヒュージピラミッドスキーム・不平等や不公平(不当性)を存立させて、君公の為に死ねる忠臣や忠兵の階層を作って、ピラミッド上層部の為に下僕や奴隷になれる社畜の階層を作って、

帝国主義とかいう一般用語を用い、グローバリズムとかいう一般用語を用い、自国よりも文明の発達が相対的に遅れた、有色の肌を持つ諸外国から富(資源・金品・財貨)を収奪させ、 君公や上層部はリッチで安全でエアコンの効いた大豪邸や宮殿で、美女と美食と美酒を侍らかして豪遊しながら左団扇で、由緒ある世界の帝王として君臨しようとする為だけのもの(超絶強欲エゴイズムの極致)じゃね?」


そうした完全なる選民的特権性を有するに至った私人の集団というものは得てして、 例えば、「我が帝国が目指す、次なる植民地候補の地を選ぶ軍法会議をすべし。」と君公が宣うて、ワールドマップの描かれた壁に向かって参謀仲間内でダーツゲームをしたり、 世界の列強各国が有している領土版図を型取って整形したピザ生地に、赤黄茶緑黒の御当地トッピングを乗せて、●●国の産品は味が良いだの悪いだの、

「うーむ。●●国ピザの色は、▲▲総統の焦った顔色に違いない。今こそ攻め時だ!」と言って、 国家の行く末を決める作戦を、冗談半分に決定して仕舞う様な、大多数の臣兵や臣民(市民)の貴い命を、ほぼほぼナメ腐った態度(精神性)へと至って仕舞う。 という訳です。まぁここまでとは言いませんが、実際、かの大戦中に一部戦局の指揮を執っていた天皇や一部特権階級は、当時こうした類の状況に置かれていた。という訳です。

「かと言って、嘗てのソ連や中国の事例によって判った事は、たとえ国家が共産化しても共産党員が貴族化し、彼らとその一族郎党が特権階級になるだけで結局は同じだよな。 じゃあ、私たちの社会にとって、最善の国家体制って何なんだ?」

等といった、君主制や非君主制の是非を問おうとする論調を唱える者(抜本的な体制への問題提起をしようとする者)は、戦後日本に於いて全くと言って良いほど存在しません。 よね?あの共産党でさえ革命だなんて、自粛(転向)して言わなくなりました。懐柔でもされたのでしょうか?とてもとても不思議に感じられます。

そして不思議な事に、戦後は革新である筈の左派政党であるにせよ、何と!(実質的には国体の)保守を示す「護憲」が多く、象徴天皇制と(名目)民主主義を掲げる戦後憲法は、殆ど常に公の場で礼讃されています。 となると、この事が何を意味していると言えるでしょうか?必ず合理性を担保しつつ、あなた御自身のセンスを用いて、よくよく考えてみてください。割と容易にお判りかと思います。

歴史的な農耕文化によって、民族の性質が勤勉真面目で集団への協調性があり、しかも平均的な知能の高い有色人種である東アジア全体が、一丸となって連帯や統合をしないよう、敢えて反目させ喧嘩させ、 欧米の軍事産業が作る「ウン十ウン百ウン千億円単位の」超絶に馬鹿高い陸海空の軍製品を、毎年「ウン兆円単位の」国家防衛予算で搾取徴収的に買わせているだけの事です。

だから本質的には、約75年前頃に確立された戦後レジームから、何時までも何時までも変わりはしないのです。 国家ヒエラルキーの上層(王侯貴族)は、白人様に尻尾を振る牧羊犬で、その牧羊犬が羊の群れであるミドル・ボトム・ベースを追い立てて搾っている。毛皮を刈り取っている。羊の群れから生み出された価値を毟り取っている。

しかし、福澤諭吉の「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず。(と言えり。・・・されども、)」といった180°誤って解釈されている平等主義(四民平等)の標語や、 国家文教予算で維持されている周到な洗脳教育や、放送政策で維持されている現行体制に都合の良いメディアによる情報操作とによって、

私たち市民の内面に形成された常識・自明性・柵檻・自粛・性善説的予定調和(忠義で清く綺麗な心)といった観念によって、 羊の群れは戦後レジームの悪辣さ狡猾さ老獪さに気付かない・気付けない・気付こうとも思わない・仮にその一部が気付いたとしても、自己の保身保全を優先し、気付かなかった振りをする。という構造です。

その根拠を裏づける理由として、何故ならば、どうして議会の多数派を占め権力を握った日本の政治家は、国民から感謝されない事、 国民から嫌われる事、国民が苦しみを招く事、国民から恨まれる事、までをも法案通過させ、わざわざ敢えてやろうとするのか? もしかして、日本の政治家は何らかの圧力によって、国民に対して著しくネガティブな影響を及ぼす政策の数々を、たとえ憎まれてであっても、(誰かの為に)敢えて実施しなければならないのか?

という事を考えてみれば、欧米(御用劇作家・御用演出家・御用お絵描き画家)から主たるシナリオやストーリーや筋書きを与えられた、日本の政治やマスコミやメディアが茶番をやっていて、 日本側のロートル政治家ら個々が自覚しているか否かに関わらず、実質その大半の機能性は、白人様が糸を引いている傀儡(パペットマペット)である。という事は一目瞭然でしょう。

それでも信じられないならば問いましょう。 ならば、どうして日本には戦前から現在まで「立憲(Constitutional)●●党」という名の政党はいくつも存在しているのに、 「共和(Republican)●●党」という名の政党は、たった一党さえも全く以て存在しないのか? ならば、どうして最大の戦争敗北責任を負う筈だった天皇に対する、或いは、内地本土へ上陸して来た米国軍に対する、大規模な国内反乱も無く、超スムーズに終戦直後のGHQは日本全国土の占領を実施できたのか?

ならば、どうして戦後に成立した日本国憲法に於いても、第1章第1条というイの一番から天皇制についての記述が為されているのか? ならば、どうして戦後日本の(象徴)天皇制について懐疑したり、その必要性や特権的聖域性を問おうとする、世の表舞台に登場している政治家・役人・学者・評論家・メディア人というものは存在しないのか?

ならば、どうして東大教授美濃部達吉の天皇機関説は、あれ程までに問題視され排撃されたのか? ならば、どうして戦前には小林多喜二への拷問虐殺の様な、大規模な共産党員への弾圧が全国で行われていたのか? ならば、どうして天皇や皇族に関する番組を見ると常に、うっとりする様なファンになりそうな心地の良いBGMが流れ、一見とても気持ちの良い情報提供の仕方(印象操作)が為されているのか?

勿論これらの理由についても上述した通り、天皇制という名の君主制は、 明治維新によって天皇界隈及び薩長土肥藩閥末裔末派及び旧華族及び閨閥門閥及び頂上経済団体及び大企業大株主及びその周辺の財閥財産家とが、獲得した日本最大の超巨大既得権益である為、 たとえ、かの大戦争に負けても、その敗北責任(A級戦犯絞首刑)を超巨大既得権益のトップ(天皇)が取らなくて良い様に取り繕って、

即ち、日本の超巨大既得権益側と米国(GHQ)とが、秘密裡に裏の取り決め(談合・密約)をして、 何があっても絶対的に権益を死守し、絶対的に譲ろうとはしない。その理由は、白人様と超巨大既得権益側(天皇界隈+被隠蔽貴族)の双方にとって、余りにも権益が美味すぎるから。という事です。

例えば、美濃部の天皇機関説については、東大教授ともあろう学識と権威ある人物が、明治維新後から普及させていた 天皇陛下=現人神であるという国家規模周知徹底観念(現人神説・天皇主権説・王権神授説・神勅神託・皇国史観・藩閥専制・超然内閣)を、

根底から覆して仕舞う様な論説を唱えて仕舞った場合、 日本最大の超巨大既得権益を確保している側としては、国体護持の観点からガチンコでヤバい状況になった。それで美濃部は国会で問い詰められ、天皇機関説が書かれた美濃部の著書は、直ぐさま発禁となった。という訳です。

既得権益(支配体制側)としては、帝国軍隊を統帥している指揮命令系統に於ける、肝心要の精神的支柱(現人神)が、天皇機関説によって崩れ去る訳ですから、 海外派兵・版図拡張・領土拡張の為に、自らの死すら惜しまず勇猛果敢に外国敵兵と戦って、潔く死んでくれる鉄砲玉の類である筈の皇国兵士が持つ心証としては、

「え?!天皇陛下って、この現世に降臨した神様じゃねえの?え。。うわぁ、マジやってらんねえわ。だったらば、俺らの大切な大切な命とか賭けれる訳ねーし。 アホくさ。(´Д`)もうみんなでトンズラしちゃおーぜ?バイバイキーン!」となる訳ですから、 藩閥勢力が超然主義で絶対君主制を目指していた戦前政府にとっては、それはもう致命的とも言える程の非常事態(emergency)となった。という事です。

つまり、神様とリンクさせた天皇制という名の君主制を存立させる事によって、その周辺に実質的な貴族制と言える、少数特権階級層を存立維持させる事が可能となり、 その隠蔽貴族制的な少数特権階級層が、国家的規模の莫大な旨味を吸える牧羊犬として機能するヒュージピラミッドスキームを存立させる事が可能になるからです。

だからこそ、1917年にボリシェヴィキ(革命的左翼)が起こしたロシア革命(Russian Revolution)によって瓦解した、専制君主制ロマノフ王朝(Romanov dynasty)のケースで見られた様な、 彼らのビジネススキームにとって、身の破滅を招く可能性のある危険因子(革命的左翼・共産党員・急進左派)は、ジャンジャンぶっ○して排除しようとした訳です。

もし仮に、(転向していない本来的な)共産党や共和党と銘打った政党が、極東ヤマト國の政権を取った場合、天皇界隈及び薩長土肥藩閥末裔末派及び旧華族及び閨閥門閥及び頂上経済団体及び大企業大株主及びその周辺の財閥財産家とが、 明治維新以来、トコトン蓄財に励んで来た国家規模の莫大な私有財産が暴かれ、変形君主制(Deformed Monarchy)及び、隠蔽貴族制(Hidden Aristocracy)とで盤石に成り立っている筈の国体が、失われる可能性があるからです。

またこの意味で言えば、明治維新以降、「大日本帝国憲法」及び「日本国憲法」の双方が、共通して担っている役割というものの本質(最重要機能)は、 「天皇制という名の君主制」及び、その副次的に付随する「貴族制的な少数特権階級層」という国体の護持(維持存続)である。という事です。

これはアンデルセン寓話「裸の王様」と全く同じ構図です。明治維新以降、日本に住んでいる殆ど全市民が、百ウン年もの長年に亘って施された、 被洗脳教育と被情報操作と同調圧力とによって「王様の衣服は美しい。」と賛美している訳です。王様は本当に何も着ていないにも関わらず。。

極東ヤマト國に於ける(アンデルセン寓話の)王様に相当するものが、寡頭牧羊犬として機能している「天皇界隈及び薩長土肥藩閥末裔末派及び旧華族及び閨閥門閥及び頂上経済団体及び大企業大株主及びその周辺の財閥財産家」という事です。

そして、何も着ていないエアーな衣服に相当するものは、彼らが戦前戦中戦後に為して来た超巨大既得権益をより盤石化し、天皇中心の国体を護持保全する為の自己中心的な所業の数々 (ヒュージピラミッドスキーム構築・白人崇拝・脱亜入欧・国民洗脳・皇国史観・国家神道・教育勅語・帝国主義・領土拡張・国民皆兵・植民地経営・産めよ殖やせよ・殖産興業・富国強兵・私的蓄財)といった所です。

喩えるならば、王様(王様を国家の象徴として利用する貴族制的な少数特権階級)が、その溢れんばかりの私利私欲を満たす為に、一般市民層を利用搾取して超絶に肥え太ろうとする、純粋なエゴイズムに基づいた所業の数々を、 恰も超ポジティブで正統で大義あるカッコイイものとして、肯定的に刷り込もうとする大掛かりなパレードをやキャンペーン実施し、

そこに集まった私たち一般市民の大半が、「キャー、なんて素晴らしいの!ウットリ。王様ステキ。王様大好き。大日本帝国万歳!天皇陛下万歳!皇后陛下万歳!みんなみんな陛下に忠誠を尽くし、 臣民として馬車馬の如く働いて御国を富ませ、憎っくき敵国軍にはバンザイ突撃して総玉砕しようぜー!なんせ大日本帝国は、世界一素晴らしい神様が宿る御國なんだから!(キラキラ)」と言っている様な状況です。

こうした日本固有の帝国主義(脱亜入欧・選民思想・版図拡大)と絶対君主制(非立憲)というものは、そもそもかの福澤諭吉大先生が考え出した事です。 帝国主義とは言ってみれば、武力(force)や軍隊(army)や武器(weapons)を用いた、支配体制側による重商主義(mercantilism)「=大ガネ儲け」と同じです。 だからこそ、亜細亜諸国の海外領土から獲得した資源金品財物によって、庶民ならば腰を抜かし、目玉が飛び出る位に大きな巨万の富(大ガネ)をもたらし、

王様(君主制+隠蔽貴族制)を富むに富ませた福澤大大大先生が、その大いなる功績を称えられ、今現在も壱万円札の表紙に描かれ続けている。という訳です。 そしてその陰には、一将功成りて万骨枯る・死屍累々・阿鼻叫喚、といった、超凄惨なむごい状況に直面した膨大な数の名も無き市民が全国に存在しています。

そして勇猛果敢に敵国と闘ってくれた、そうした市民の極一部が、形式的に靖国神社で「御国(君主制+隠蔽貴族制)の為に死んでくれて御忠義でした。(ドモドモ)」 「ワシら一部特権階級が美味い汁を吸う為に(ココロノコエ)、本当に御苦労様でした(シメシメ)。」「御国の英霊に参拝敬礼。( ̄人 ̄)」と、祀られているという訳です。 といっても、単に祀られるだけですよ。

例えば、彼らを国家の誇りとして、子孫一代につき1億円づつを支給してあげる。とか、子々孫々に亘り、大学まで学費生活費の負担を賄い、仕事や商売の面倒まで手厚く看てあげる。とかいった労い方では無い訳です。 単に祀って祈るだけならばタダ(数々の国家的英雄の子孫に対し、授産させたり国家予算を出捐しない。)ですよね?

つまり、日本という国家は「御国(君主制+隠蔽貴族制)の為に、命を惜しまず過酷な労役を課され、大切な命を落としてくれた国家的英雄とも言える最も忠義な市民の数々を、タダで済む様なその程度の犠牲として見ている。という事ですよ。 なんせ日本とて、欧州諸国と比べれば人権意識を欠いたアジア土人の一国ですから。覇権を握る欧州諸国と比べれば、日本人の人権は猿程度の扱いであった訳です。

故に、お上や現代的聖職者(伝統宗教・新興宗教・メディア人・芸能人・御用学者・御用教育者・御用言論人)から与えられた柵檻観念群を取っ払い、方法的にではあれど、「先ずは初心(タブララサ)に帰ろう!」と言うか、 「先ずは現象学的還元・判断中止(エポケー)をしよう!」と言うか、 常々から「なんで?」「どうして?」を問おうとする、素直で正直な子供心というものは、極めて大切なものである。

と、私は悲痛な思いを込めて、純粋な子供心は大人になった後も、何時までも大切なものである。と痛切に思いますよ?。。本当に。。 ここで言う「御用」という意味は、国家政府(支配体制側)から支給される良いカネで養われていて、国家政府が目指す志向に沿ったコンテンツを、下々へ周知徹底する事に心血を注いでいる。という意味です。

この構図を踏まえ、現状一部の知識層は敗戦属国となった日本の政治家やマスコミが、諸処のルアーインセンティブによって、ドス黒い悪意を持った飼い主(牧場主)の手先となった寡頭牧羊犬に過ぎない。という認識。 及び、その無意味さを知らぬ上昇志向や正義感や血気にまさる者が、政治やマスコミといった「表面上形式上のマツリゴト」とされる世界に意気揚々とエントリーするのだ。という認識。を基本的に持っている訳です。

故に、私たち市民は何時までも「Govt always fools us.」をされて馬鹿にされたままである。私たち市民は何時までも、本当の意味で言う「主権」から隔離された隷属的な羊の群れにされたままである。 たとえいくら「象徴」であるにせよ、君主制が採用されている国家体制の場合、その仕組み上、国権(王侯貴族)と民権(その他一般・市民)とは、相互に利害の相反する残念な関係性へと陥るのである。という事です。

しかも寡頭牧羊犬制名目民主主義傀儡国家に棲んでいる私たち羊の群れは、徐々に去勢されて(castrated)行っており、牧場に生えている牧草は、遺伝子組み換え(Genetically Modified Organisms)の飼料を食わされ、まともな自然の牧草は徐々に減少しているのである。 という甚だ厳しい事実現実に私たちは気付かなければなりません。そんな絶望的な状況で、私たち市民にできる、残された営為は、「自衛(self-defense)」と「自営(in-dependent)」である。と私は思います。

つまり、自分たちのチカラで守り、自分たちのチカラで食う。という事です。そして、ここで言う「自」は、個々人自身(己自身)だけを指すのではありません。ここで言う「自」は、私たち「市民(citizen)」という意味です。 つまり、市民のチカラで守り、市民のチカラで食う。という事です。




こうした訳で日本の政治や行政に強い実行力が無く、尚且つ大規模な少子高齢化の潮流によって日本全体が徐々に貧困化し、 国家が富の再分配機能(re-distribution of wealth)を果たし難くなった場合、

遍く分野に於いて国家による政策施策が十分に機能していない。という状況が実質的なデファクトスタンダードになれば、 畢竟、一番困るのは常に弱い立場に居る人々という事になります。そのいくつかの例を挙げれば、下記の様な存在です。

背負うものがある人・守るものがある人・負債を抱えている人・経済競争力の無い人々・国際競争力が低い産業に従事している人々・生産性の低い産業に従事している人々・ 幼い人々・老いた人々・怪我や病気や障害を持つ人々・知識や知恵を付けられなかった人々・無産である人々・無業である人々・被扶養の立場にある人々・従者や傘下を抱えている人

何故ならば、上述した様な国家行政や地方自治体やその他公的機関が、果たすべき弱い立場に居る人々を守ってくれる機能が、低下したり不十分になればなる程、 もろに社会的弱者へと「しわ寄せ」が行く仕組みに、世の中は常になっている
からです。

喩えれば、労働や報酬といった交換に基づく対価物が流れている「ドミノ倒し(domino toppling)」の様なものです。 ドミノ倒しの末端に置かれたポジションでは、次にドミノブロックを倒す(泣かす・徒労や苦役や貧乏籤や骨折り損を押し付ける)相手がいません。

もっと喩えれば、公的部門が外敵からの防衛と、持てる者の私有財産を夜警するに留まる在り方、いわゆる夜警国家(nightwatchman state)の様なものです。 これは持てる者がひたすらに富を牛耳ろうとする世の中の在り方で、公的部門は社会的強者の為に存在する様な自由放任主義(laissez-faire)です。 夜警国家の末路は、社会問題が増え、犯罪事件が増え、自殺者や餓死や野垂れ死にが溢れる世の中の在り方です。

本メッセージの後半で私は、有り余る程の富を持てる者が、只管に富を牛耳ろうとする世の中の在り方を、批判しようとしています。 そしてその有り余る程の富は、明日の日本を担おうとしている志や才ある青年や若年が、奮起し立ち上げてようとしいる経済的事業の数々を、インキュベート(Incubate)する為の原資として拠出すべきである。

と、ノブレス・オブリージュの精神(noblesse oblige)を引いて提唱しています。
今の御時世は、シリコンバレーにあるGoogleやAmazonやAppleを筆頭とするIT企業がグローバルな栄耀栄華を極めていますが、 その一方で、どれだけ膨大な数の世界中にいる人々が、誰からも気付かれる事の無い日陰(shade)で暮らしているというのでしょう?

ごく限られた栄耀栄華の影に、死ぬまで日の目を見る事の無い日陰で暮らしている人々が膨大に存在するという事は、 つまり、日の目を見る様な華のある社会的ポジションは、ごくごく僅かの限られたパイ(limited pie)である。という事です。 現代のエリートや現代の経済貴族になれるのは一握り。

自助努力や才能は必須だが、祖先や親から受け継いだ諸処のリソースが大きく人生というゲームを左右する。この様な人類の在り方は今も昔も変わっていません。 それでも1000年前、500年前、300年前、100年前、の人類と比べれば、大分マシになりました。或いは、途上国・後進国・貧困国と比べれば、日本は大分マシだと思うべきなのかもしれません。これは先人による途轍もない犠牲があってこそです。

建前上、日本は憲法に於いて子女教育や職業選択の機会均等が謳われています。しかし、あくまで憲法も法律という観念による産物である以上、実質的には「建前」です。フィジカルな実体が存在する類のものでは無いのです。 それ故、実質的な機会均等や、実質的な平等や、実質的な公平が、具体的な実行力を伴って、その理念の履行が担保されている等という論拠は、まともな頭をしていれば何処にも思い付きません。

ここで私が何を言おうとしているかと言えば、 少子高齢化の潮流によって日本社会全体が徐々に貧困化し、国家が富の再分配機能を果たし難くなった場合、 国家が担っている二次的な原理である「建前」が、その予算面に起因する行政の人員的側面や物的側面から、実質的により履行され難くなって仕舞う。という事です。

よって先にも述べた通り、現代という時代は昔に比べ、より「実」なる世界へと変わって来ているが故に、 建前・政治・法律・制度・行政・規範・秩序・宗教・道徳・体裁・形式・世間体・肩書・学歴・職歴・資格といった、二次的な原理の 機能性やチカラは徐々に低下しているのだ。

従って社会全体として、実力(保有リソース大小・努力奮闘如何・難点障害ハック如何・生物的な次元での知力体力精神力)こそが、個人や共同体にとって将来の命運を左右する。 という優勝劣敗・自由放任・弱肉強食・実力主義といった「一次的な原理」の支配する厳しい世界へと、着実に変容して行っている。という事に気付く必要があります。


さて、現代日本に生まれても、人生は運に大きく左右されます。例えば、どんな時代(何時)に生まれるか?どんな場所に生まれるか?どんな親に生まれるか? どんな友達と出会うか?どんな先生と出会うか?どんな同僚と出会うか?どんな上司と出会うか?どんな取引先と出会うか?どんな伴侶と出会うか?

要は、「どんな人と何時に出会うか?」という事が大きい訳です。そして(先天的後天的)出会いという運が悪かった人は、 死ぬまで日の目を見る事も無く日陰で暮らすか、或いは、死ぬ気で自助努力をして実力を磨いて、地力で栄光を掴みに行く方途しか残されていません。

確かに当たり前の事だとは思いますが、、しかしながら、私が問題提起をしたい事は、現代の日本に生まれても、個々人の人生が常に「運」などという偶然性に、 大きく左右される様な前近代的構造(既得権益継承・競争原理不全・機会不均等・不完全競争)であって良いのだろうか?という事です。

「運」とは、言ってみれば、既に与えられた牌(given)であり、偶々の巡り合わせ(luck)でもあります。いきなり地面が抜けて、空いた穴に落ちて即座に死ぬ。いきなり空から降って来た、落雷に当って即座に死ぬ。 これらでさえ「運」です。ごく普通の社会生活を送りながら、運悪く死亡へと至った本人に対し、どれだけの帰責性(咎・非)があると言うのでしょう?運が悪いという事は、本当に残念極まりないというか、本当に悲しい事ですね。

こうした事を考えれば、悪因悪果を謳う仏教的な因果応報論が、現実世界に於いて本当に客観的妥当性を有すると考えられますか? もしあなたがこの世界の物的側面と心的側面の両方を、客観的に正しく把握されたいのであれば、 「運」などという偶然性に対し、こじつけ的な意味を過分に見出そうとする心的な試みの滑稽さについて、本質的な洞察が不可欠でしょう。

ならば戦国時代や太平洋戦争といった、殺伐とした阿鼻叫喚の時代に生まれた人々には、前世の悪因があったのか?ならば太平洋戦争で死んで行った、数え切れないくらい膨大な数の大日本帝国臣民には、前世の悪因があったのか?

ならばイラク戦争で米軍の空爆等により死んだ全イラク市民には、前世の悪因があったのか? ならば米国911で死んだ全市民には、前世の悪因があったのか?ならば阪神淡路大震災や東日本大震災や熊本震災で死んで行った全市民には、前世の悪因があったのか?
という事を、 理性的常識的に考える必要があります。

この世界の仕組みを客観的に正しく知りたいと思った場合、私たちは政治や宗教の「そもそも論」について、方法的に懐疑する必要があると私は考えます。 ならば何故、仏教は悪因悪果(善因善果)などと言って私たちを脅す?私たち人類を導く深淵で高邁な宗教様が、「脅す」などというそんな下衆悪をやって良いのでしょうか?

ならば何故、仏教では人間が死んだら天道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道、という六道輪廻に転生する。などと言って私たちを脅す? ならば何故、一部の欲に塗れた悪意ある新興宗教は新規勧誘の為に、現世利益(教団に入会をすれば大きな御利益があるよ)を説いて人々を釣る?

片方には地獄(悪魔・鬼畜)が描かれ、もう片方は天国(天使・極楽)が描かれているカードの表裏の様に、宗教は人々の恐怖と欲得とを煽って、人々を操ろうとしているという点で、 現代の国家政府や諸イージー主義の企業による、人心掌握(観念支配)の構図と何が違いますか?
という事を考えて、 自分なりに気付いて普遍的な客観的妥当性を担保できる様な答えを、暫定的にでも見出そうと思弁する必要がある。という事です。

例えば、どうして天国と地獄の様な甚だ両極端な世界観や死生観を、私たちに抱かせるのでしょうか?どうしてそこまでの「差」を、個々人に対して植え付けたがるのでしょうか? 元来人間は誰しもが生まれてから死ぬるまで、

何かしらの苦労をして生きて行く訳ですから、万人が等しい扱いを受ける様な、中庸で穏やかな世界観や死生観や人間観があってもいい筈ですよね? しかしながら、中庸であるよりも両極端を強いて、私たちに想像させる宗教が多い理由は何故でしょうか?という事です。


またもし仮に、世界三大宗教である仏教やキリスト教やイスラム教の教義に対し、哲学的考察をした結果、普遍的な客観的妥当性を見い出し難い。寧ろ残念な事に、狡猾で老獪なドス黒い悪意を見出して仕舞った。。と気付いた場合、 ならば他に数多ある伝統宗教や新興宗教はどうなのか?という事も考える必要があります。

そもそもGovernmentという語自体が、「Govern = Control/Rule」「Ment=Mind」に由来しており、即ち、「政府」という言葉の語源は、観念支配や精神支配なのだという事です。 例えば、江戸時代は徳川幕府の御用学である、林家がオプティマイズした儒学(ex.長幼の序)によって、日本国内の社会秩序が265年間も保たれていました。

そして人類史的に言えば、宗教というものは殆どの場合、王侯・聖職・貴族・軍族・平民・賤民といった階層構造によるヒュージピラミッドスキームを成り立たせる為の精神的支柱として、 人々を統合(支配)する為の道具として用いられて来た。という事です。

これは天皇を頂点とする日本固有の国家神道についても同様です。 そして、この人々を統合(支配)する為の道具(宗教教義)というものが、現代に於いては、 「カネ(多段階層的牧羊犬制拝金主義)(mammon based on multi layered sheep dog system)」と「エゴ(多段階層的牧羊犬制自己中心主義)(egoism based on multi layered sheep dog system)」である。という事です。

ローマも、ビザンツも、漢も、隋唐も、明清も、マヤも、インカも、アッバースも、ティムールも、オスマンも、 はたまた飛鳥の世も、天平の世も、江戸の世も、明治の世も、昭和の世も、遍く古今東西それらの国々の頂点に居座っていたGovernment(支配欲に塗れたプライベートな私人の集団)による、基本的な営為は同じです。


ここで私が運や宗教の話をして、何をあなたに伝えようとしているかと言えば、 これまでこの世界の仕組みや「本当の事(客観性を担保した真実)」について、そもそも論理的にその由来を深く考えて来なかった方々を対象に、 その方々の内面に於ける心的な観念(世界観・死生観・人間観・等)の在り方についての蒙きを啓こうとしている。という訳です。

話を戻すと、もし余りにも「運」が悪い人が居たら、今ここに現世を生きていないでしょう。今ここに現世を生きているという事は、 仮に、たとえその人生がどれだけ「運」の無いものであったとしても、生存できて居られるだけの運があった人です。

但し「運」があり且つ、その努力と才能で時代の栄耀栄華を獲得できる人は、常に一時代当たり極一部しか居ません。 太古より人類の社会構造に於いては、エリートや富豪になれる様なチャンスを掴み、超ハッピーになれる類の恵まれた「運」の良い人の数は、常に少数だからです。

それ以外の残り大半の人は、「運」が足りなかった。自助努力が足りなかった。才能が足りなかった。等々の理由で、劣後したポジションに置かれたり、激しい競争にさらされたり、といった非常にしんどい思いを、生涯し続ける事になります。 この栄耀栄華の享受が極一部少数に限られる理由を証せば、何故ならば、ヒュージピラミッドスキームが採用された社会構造に於いては、エリートや富豪のポジション数は、必然的に極小寡少に成らざるを得ないからです。

言い方を換えれば、人類史に於いては連綿として、常に頂点頂上部が最高で最大の美味い汁を吸える「三角形というカタチ(pyramidal form)」が、共同体を成り立たせている体制として採用され続けているからです。 もし仮に、三角形以外の何らのカタチ(non pyramidal form)が、スキームとして成り立つのであれば、ヒュージピラミッドスキーム以外の社会構造でさえ、人類という種族は採ろうと思えば採れる訳です。私たち人類はこの点に気付く必要がある。と私は思います。

よって、共同体の体制に「三角形というカタチ」が採られている限り、旨い汁を吸える人の数は、限られたパイの奪い合いになります。 その事を考慮すれば、寧ろスモールピラミッドが林立乱立している様な状態の方が、経済生態系としては、 個々人毎で多種多彩に持っている幅広い価値観の多様性にフィットした所掌分業や役割分担を、効率的に図れるより良い社会である。と言えるのではないか?という事になろうかと思います。


さて、情報操作の性格という事について話を戻すと、こうした情報操作に営利目的がある場合は「対国内市場開拓戦略」という事になる訳です。この場合、情報操作の程度や悪意の有無といった問題となるでしょうが、 もっとも商売をする営利企業が成長発展しなければ、日本の経済社会は繁栄しない。私たちは幸せになれない。という関係性がある以上、私たちは営利企業による良識の範囲を超えない緩い情報操作は、 それを認識しつつ寛容さを持って受容する態度が望ましいのではないか?と私は考えます。

何らかの価値を提供して対価を受け、お客さんの満足を図る商売(ビジネス)を行わなければ、経済は成り立たない産業は育たない訳ですから、 そうなれば、あなた御自身、あなたの大切な人、私自身、私自身の大切な人、そして私たちの社会や国家、みんなみんな生きて行けなくなります。 即ち、成長戦略研究所が標榜するサバイバル(生き残り)とは、対極の方向へと向かう結果を招く事になるからです。

故に、仮に一旦インフレとなれば無価値な紙切れと成るに過ぎないカネ(拝金主義)よりも、産業と人財の集積こそが、私たちの社会にとって大切なものである!と私は考えます。 だからこそ、政府要職を歴任した晩年の後藤新平は、「財を遺すは下、業を遺すは中、人を遺すは上」(カネを残すは下策、仕事を残すは中策、人財を残すは上策)という言葉を遺したのだと、私は思います。

こうした事柄を考えれば、【壱】私たちに明るく楽しく心地よい情報ばかりを与えようとするメンタリティー。【弐】私たちに厳しい現実を見せる情報を与えようとするメンタリティー。 私たちが持つべき気持ちや精神性の在り方として、どちらのメンタリティーである方が、客観性や妥当性や真実性を担保しつつ、物事を語り得る事ができるのか?という事を、よく考えてみてください。

そして、国内外の諸団体による「Govt always fools us.」の類が相も変わらず、何故インターネットの普及した現代に於いても行われ続けているのか? その構図は?その起源は?その目的は?その思想信条は?その受益者は?その被害者は?その副産物は?(争いの傍目に置かれ)漁夫の利を得ている者は?(争いの渦中に置かれ)漁夫の損を被っている者は?という事を、よくよく考えてみてください。



さて、この場で私の過去について先述した以上の多くを語ろうとは思いません。余りの凄惨さに出会った初っ端からドン引きされても困りますので。 ただ全てエビデンスがある話なので、何時の日か私の壮絶な過去を公に語る機会があるかもしれません。

こうして日本社会では、いったん個人の人生が詰んで仕舞うと、そこから抜け出したい、這い上がりたいと思っても、 その理不尽な失敗や被害で受けたダメージによって、元の状態へ這い上がる事は、至難の業となります。誰も助けてくれやしません。

何故ならば、自分自身を取り巻いている構図や構造が、完膚無きまでの「負けゲーム」であり、遮二無二に這い上がろうとしても、社会的な競争をする為の武器となる「牌」や「駒」や「カード」が、 余りにも勝算の無い貧弱なツールしか無い。という状況に陥るからです。

RPG的な喩えで言うなれば、戦闘力の高い武器や防具はその大半が奪われていて、残された武器は「木の棒」と「布の服」くらいしかない。。「え、マジどうすれば良いの?」といった状況です。 しかも直前に受けている災難によって、身体的、或いは社会的、或いは経済的に、重度のダメージを受けている為、無論ヒットポイントや身体的・社会的・経済的といった諸処のリソースさえも弱体化して仕舞っているのです。

そうなると、もし仮に「死」を望む事を止めた場合、必然的に意識の向かう矛先はサバイバル(生き残り)です。つまり、ヒットポイントは僅かしかなく、手元の武器は貧弱で、諸資源にも乏しい。 という自分自身が逆境や苦境にある間、まずは速やかにエコモード・セーブモードで生活や仕事を回せるようにし、 これ以上の逆境や苦境に陥る事だけは絶対に回避する事。自己の生物的生存・社会的生存・経済的生存の維持を最優先にする事。という戦略を採るしか、残された道はありません。

先述した四度の人生の詰みという状況に於いて、深手を負っているダメージの種類は、身体的・社会的・経済的という点で四度とも異なるものでしたので、 一概には言えませんが、この四度のドン底のさなかに居た時、私が何を考えていたかと言えば、「一縷の望み」です。

そしてそのドン底からの活路を見出そうとする営みです。
しかしながら、無論の事、大きな逆境という迷路から出る為に、手当たり次第、迷路のどの出口も探れど探れど、行き着く先は袋小路に当たって仕舞う様な状況でした。

「このルートも出られない。あのルートも出られない。そのルートも出られない。」という風に、ピンボールの様にありとあらゆる出口に辿り着ける可能性があるルートを脳内でシュミレーションする訳ですが、 思案を巡らせ知恵熱が出るほど考えに考えて考え抜く訳ですが、どのルートも最終的には袋小路にブチ当って出られないのです。これが詰んでいるという証なのです。

ならば誰か自分よりも弱い人や劣った人を見つけて、奪ったり泣かしたりといった犯罪を為すか?と言えば、今も当時もそうですが、 犯罪を為すという総合的に程度の低い人間への嫌悪、自分自身の人生を詰みへと追いやった下衆悪人と犯罪的加害への強い嫌悪があった為、 弱い人や劣った人に犯罪の類を為して泣かす。という発想は出て来ませんでした。そこには「腐っても鯛」という矜持があったからです。

いくら脳内で脱出のシュミレーションをしても袋小路に行き着く。しかしそれでも、もしかしたら、及びごく僅かの袋小路にある土塀の隙間には、 もしかしたら、微かに光が差し込んでいるかもしれない。もし仮に、微かな光明が差し込んでいるとしたら、 その一筋の光明を一刻も早く見出して、その光の入り口に向かって自分の拳で風穴を開けなければならない。と、当時の私は思っていました。

私は四度とも諦めはしませんでした。光明の差し込む出口を求め真っ暗闇の迷路を、彷徨い・藻掻き・足掻いて来ました。 もし周りに転落する事もなく真っ当な人生を送れている人が居て、傍からその当時の私を見たら、どんなに憐れでカッコ悪く見えた事でしょう。 しかし、私には人様への見た目や世間体といった体裁を、なりふり構って居られませんでした。

兎に角、真っ暗闇の迷路から一刻も早く脱出する為、仕事や生活に於いて実質的な成果をなるべく効率的に出す。という事に集中しました。 勿論、迷路からの脱出を始めた当初は、手当たり次第の遮二無二でしたので、そうした努力や苦労は行き当たりばったりとなり易く、 当時を振り返れば、随分沢山の小さな失敗や無駄な行動をしたな。。と思います。つまり、効率性や知恵は徐々にしか高まりませんでした。

そんな中、取り分け最も邪魔で、最も克服する事に時間や負担を要したものは、やられた過去に対する後悔、素直で正直だった自分の愚かさへの悔しさ、生まれた家庭や学童期の環境に対する嫌悪、 犯罪的加害を為した奴らに対する憎悪や復讐心、自分を嘲笑ったり馬鹿にした周りの奴らに対する憤怒、 こういったダークサイドにあるドロドロした心証は、ただでさえ苦しく貧しく厳しい現実に置かれている中で、更に追い打ちを掛けるかの様に自分の内面を苦しめるのです。

喩えるならば、糞悪人共によって既に一次被害を受けているにも関わらず、副次的に発生する二次被害や三次被害を、何時までも受け続けて仕舞う様な構図に嵌る。 超スーパー弩級の貧乏クジを引いて、何年も何年もスピリットへのダメージや割損を食らい続ける。そして仕舞いには、人間として大切なスピリットまでもが、ダークサイドの心証に侵襲されて仕舞う。
という馬鹿を見るのです。

そうなると、もう私自身は宗教的な意味でいう所の天国へは行けないのかも?。。というか、そんなもんホンマあるのか?とも懐疑しますが、でもですよ?よくよく考えてみると、 やった側は大得をして幸福となり、スピリットはポジティブとなり天国へ行ける。やられた側は大損をして不幸となり、スピリットはネガティブとなり地獄へ落ちる。何故ならば、人を呪わば穴二つだから。

という結果的に至る必至の構図について、この余りの遣る瀬無さを思う時、二元論的な宗教を基準とした現世の仕組み(弱肉強食)に対する世界観は、 余りにも不条理で理不尽で、おかし過ぎやしませんか?これ程までに道理の通らない話は無いですよね? 何で悪をやった側が、大得をしてハッピーになれるんだ?何で悪をやった側が、ポジティブになって天国へ行けるんだ?

何で悪をやられた側が、大損をしてミゼラブルにならなきゃいけないんだ?何で悪をやられた側が、ネガティブになって地獄へ落ちなきゃ行けないんだ? やられた側にとっては、本当に本当に「踏んだり蹴ったり」「泣きっ面に蜂」「弱り目に祟り目」「一難去ってまた一難」、つまり、反吐が出そうになるくらい、ガチンコで糞ウンコみたいな世界観でしかありませんよね!?

だからこそ、「正直者は馬鹿を見る!」という諺が、昔々を生きた万人の経験則(集合知)から生まれた。という事でしょう。 謂わば「この世の中の仕組みは、綺麗な心をしている側の人間が、常に泣く様に出来ている。」という訳です。ならば、その画面の前に居るあなた様は、素直で正直な綺麗な心で居続けたいと思いますか?


という事からすると、二元論的な観念構造を抱かせようとする宗教の語る話は、本当(真実)なのでしょうか? 筋や道理が完全に通っていますか?現世という世界の根底で成り立っている仕組み(弱肉強食)に対して、客観的に妥当していますか? 「もう有りもしない綺麗な作り話で、人を欺くのは止めてくれ!」

「重篤な被害を受けて泣いている側のスピリットこそ、ダークサイドの心証によって、超ネガティブなものへと侵襲され悪化しているんだ。」 「弱肉強食と適者生存という身も蓋も無い原理が働いている、この現世で通用しないフェイクロジックを信じ込ませて、 下々を馬鹿にするのもいい加減にしろ!」「この嘘っぱちが!」
と、数年前に最も苦しんで居た当時の私は、何度も何度も心の中でそう思いました。

しかし、袋小路に差し込む一筋の光明を、ピンボール的な総当りシュミレーションで見つけ出し、目の前にあるタスクに没頭して実質的な成果を出さない限り、少しも前へは進めないのです。 ダークサイドにある心証の如く、ただ単にストレスになって自分の内面を苦しめる、無駄な邪念を考えている精神的余裕なんて無いのです。

しかし、人生が半ば詰んで有り余っていた時間、重度の鬱で行動する気力も無く布団の上で横たわっていた時、 「何故この今があるのか?」「何故この完膚なきまでの負けゲームとなった現状があるのか?」という因果を辿って行けば、 明々白々と判り切っているにせよ、「己のエゴ(私利私欲・身勝手・唯我独尊・自己中心主義)だけで、俺を嵌めて利得をして逃げた奴が居たから。それも何人も。。」

という半ば自動的な思考回路が形成され、その回路内のループから出られなくなる。という構図に嵌って仕舞うという訳です。 一度の詰みに於いて脱出まで平均四年が掛かりましたが、そうした努力や苦労の甲斐あって、私は四度とも袋小路の土塀の隙間から差し込んでいる一筋の光明を見つけ、 迷路の出口を見出し、そこからは必死になって自分の両手の爪で削った土塀の隙間を匍匐前進して、 最終的には、人生のドン底と逆境という簡単には出られない迷路から四度とも抜け出す事ができたのです。

我ながら「万歳!」と今となっては感じています。 どんなにクソみたいな負けゲームの中に置かれて居ても、どこまでも執念深くもがき足掻き続ける。という事は、余りにも重要な事なんです。 人間の真価が問われるのは、クソみたいな逆境に置かれている時なんです。そして逆境に於いては、自他共に人間の本性が露わになります。

でも、もし迷路からの脱出を諦めて仕舞ったら、その時点で終わりなんです。もし諦めて仕舞ったら、人生を浮かび上がらせる事なんか、生涯に亘ってできやしないんです。 だから、どれほどゲームが厳しくて難しくても、絶対に諦めては行けないんです。
「神は自らを助くる者を助く。(Heaven helps those who help themselves.)」と言いますよね。

でも、芥川龍之介の蜘蛛の糸に出てくるカンダタの様に、自分一人助かりたいが為に周りを足で蹴落としては行けないんですよ。何故ならば、この世は鏡(mirror)だからです。 利己主義・自己中心主義・唯我独尊・保身保全・己さえ良ければ、という動物的な観念に終始する者が至る末路は、何時のご時世も身の破滅です。 この世が鏡であるならば、基本的には、善因善果や悪因悪果となり明日は我が身という事ですから。

とは言え、無論の事、しばしば例外も有ります。その例外が「悪の逃げ得」「加害のやり得」というやつです。 まぁその辺の道理については、苦節十年で修羅場を何度も経験した今の私は理論化できる程、弁えておりますが、 横道に逸れると話が長くなりますので、ここで語ろうとは思いません。

話を蜘蛛の糸に戻すと、そもそも泥棒であったカンダタにお釈迦様が手を差し伸べた理由は、その昔、カンダタが小さな蜘蛛を助けてあげた事があったからです。つまり、「情けは人の為ならず」という事です。 この諺は、英語で言う所の「not A but B」の構文ですからね。もっと分かり易く言えば、「not only A but also B」の構文です。くれぐれもお間違え無く。

「A is not for B」とすると、完全に真逆の意味になって仕舞います。 さて、どうして私が難解な迷路から四度とも抜け出せたかと言えば、胸中ずっと一縷の望みを密かに抱き続けていたからです。 そして「彼を知り己を知れ」という『孫子』の言葉に従い、彼と己のゲームをハックする為の戦略と戦術とを考え続けたからです。

絶対に諦めない気持ちがあったからこそ、最終的に真っ暗闇の迷路の中で一筋の光明を見出す事ができたと思っています。 これを別の言葉で言い換えるならば、真っ暗闇の迷路からの脱出ゲームをハックする事ができたからです。

つまり、ごくごく僅かの袋小路にある土塀の隙間には、小さな小さなホコロビができている。という事に気付いたからです。 そして、その小さなホコロビを自分の目で確認した後、蟻の一穴の如く両手の爪で泥臭く崩して行ったからです。
土塀を崩す様は、「ショーシャンクの空に」という映画のワンシーンに近いかもしれません。

私は昔からテレビも映画も殆ど見ないのですが、あの映画だけは何故か若かった頃、たまたま見入った覚えがあり、強い印象に残っています。 囚人となった主人公が必死になって牢獄から脱出しようとして土を掘っていました。確かハッピーエンドでした。

あれ以外に、私が最後まで見た映画は無かった様に思いますが、あの映画が後の18年に於いて私の身に起こった生き様の縮図だったとは。。 もしかすると、たとえ牢獄に閉じ込められても、たとえ何の希望も見出せ無くても、たとえ袋小路から出られなくても、たとえ硬い土に当っても、

たとえ爪先が痛くなっても、たとえ刑務官からしばかれても、たとえ周囲から笑われても、絶対に絶対に諦めるなよ。いつか必ず抜け出せるから。 という事を、若年だった自分に予め教えてくれていたのだろうか?
今になって改めて思い返せば、何とも不思議な気持ちになります。

翻って、私が積み重ねて来た営為に関して言えば、勿論、真っ暗闇の迷路から脱出する為、何年も何年も膨大な時間を掛け、思案・思索・想像・調査・探索・考案・創造・戦略・戦術・実践・試行・検証・一般化・標本・応用といった諸事に於いて、

独自で我流で固有の方法論を築きつつ、日々の努力を継続して来ました。冒頭で告げた経済の話を踏まえると、私はこうした独自で我流で固有の営為こそ現代のグローバル世界に於いて「価値」だとみなされる類のものだと考えます。

何故ならば、我流で固有の方法論こそ「実」を志向している営為だからです。いわゆる職人技や暗黙知といった類です。我流で固有の方法論には、あなたと全く同一の営為を積み重ねて来た。などという個人や法人が、他には存在しません。

現代のグローバル世界に於いては、「いくら世は広しとは言え、俺しか持っていない。自社しか持っていない。」といった唯一無二な要素が、価値の源泉です。この原理に関しては、Google・Facebook・Amazonだって同じです。


また時として、「当時の私を奴隷の様に扱い成果を生ませ、そのレベニューシェアの大半を上前として搾取する人間」、「力が奪われていた当時の私を舐め腐り、トカゲの尻尾という役を与えて利用する人間」、と命懸けで闘った事もありました。

その闘いの本質を形容するならば、まさに窮鼠猫を噛む(a cornered rat will bite a cat)です。
この二度あった命懸けの闘いに於いて、もし私が負けていたら、 今頃は彼らの奴隷状態のままか、もっと酷い下衆な扱いを、彼らから受け続けて居ただろうな。。と思います。もしかしたら、今頃ここに生きて居ないかもしれません。

しかし実際の私は、この二度あった命懸けの闘いに於いて、年齢・経験・経済力・社会的立場・人脈等々の点で、圧倒的に格上だった二者と闘って完全勝利を収めました。 二度とも完全に勝利できたからこそ、今もこうして元気に生きています。

何故ならば、私は『孫氏』の教えにある通り、彼と己の闘いをハックする為の戦略を見出し、彼と己の闘いをハックする為の戦術を実地に活かしたからです。 「桶狭間に勝った。」「関ヶ原に勝った。」と窮鼠猫を噛むをやってのけた当時の私は感無量で喜んだものでした。。

話を戻すと、私が何度も経験した真っ暗闇の迷路からの脱出について、もっと具体性を以って喩えるならば、 まずは土を削れる程度に両手の爪を伸ばす事。土塀にある小さなホコロビの中でも最も土が柔らかい箇所を見つける事。

そして、自分の爪が折れたり剥げたりしない土塀の削り方を見い出す事。爪で土を掘削するという自分に与えられた一縷の望みを小馬鹿にし嘲笑する様な奴は無視し続ける事。

土の掘削を邪魔する奴には、自分がダメージを受けない闘い方を考え出して勝つ事。 そして、一日当たりに土塀を削れる量には限界がある事を知り、日々一定の掘削を継続する為のメンタルを維持する事。 そして限られた諸資源を無駄にしないよう、最小限の努力で迷路から脱出する為、自分の身の丈や胴回りを計測しておく事。


こういった一言で言えば、「迷路の仕組みをハックする方法」とその「ハックを支える細かな方法論の集積」です。 ここで私は伝えようとしているイメージを分かり易いよう比喩的に述べていますが、もっと具体的に言えば、

ビジネスに於けるハックの本質は、如何にして何時までも収益(お金)を増大させ続けられるか?という事です。 パーソナルに於けるハックの本質は、如何にして何時までも若々しく健康で、生き活きとした肉体と知性と精神とを手に入れられるか?という事です。

但し、先述した通り、ビジネスに於けるハックの本質が、表面的には何時までも収益(お金)を増大させ続けられるか?という事であるにせよ、 カネは実体経済の規模より百倍以上と遥かに大きい金融市場の中へ留まっている限り、単なるギャンブル的なマネーゲームの道具に過ぎません。

こうして私たちが空気を吸い水を呑んでいる、「このリアルな社会」「このリアルな経済」に於ける生活が潤うという事にはならない訳ですから、 先述の後藤新平が遺した「財を遺すは下、業を遺すは中、人を遺すは上」という言葉の通り、地に足の着かない脆く儚い経済観念群に過ぎません。

カネ(拝金主義)よりも、価値ある産業と価値ある人財の集積こそが、私たちの社会にとって最も大切なものである!と私は考えます。 その意味ではカネ(拝金主義)とは、言ってみれば、インフレ紙切れ化へと至るリスクのある、フラッシュメモリの様な、砂上の楼閣である。 実体経済をフィジカルな面で支えている、ミドル・ボトム・ベースに居る人々への流水的論な恩恵は乏しい。という事が言えるかと思います。

この本質的な財業人について成長戦略研究所は、サービスやオファーとして提供して参る所存です。 よって、ビジネスに於けるハックは事業者様向けのご提案で、パーソナルに於けるハックはアスリート様やダイエッター様やアンチエイジング実践者様向けのご提案です。

人生の詰みというドン底の逆境を四度も乗り越えたお陰様で、今は物凄くしぶとく強く逞しくなれたな。とも思っています。 とは言っても、私に加害をしドン底へと突き落とした様な下衆悪人に対してまで感謝はしていません。

私が別人の様に変わったと言っても、私が悪人を忌み嫌い憎んでいる手前、私も彼らと同じ様な暗愚で下衆な悪人になろうとは思いませんでした。 そもそも私が糞みたいな悪人ならば、ここまで意義深い情報を掲載したウェブサイトを公開したりなんかしません。

私は数年前頃から、「これだけ人一倍の辛い思いをした体験があるからこそ、何時の日か何かできる事があるかもしれない。」と感じていました。 そしてその思いは、私がとある天才トレーダー氏を発掘し、彼とビジネスで提携した事によって、今こうして形になって実を結んだという訳です。 故に、日本にとって最も大切な存在であるのは、そのとある天才トレーダー氏です。



ところで、こうした類稀な体験をした結果、私は自己責任論(自分原因説)が絶対的に正しいとは考えていません。自己責任論(自分原因論)は、客観的な環境状況の把握、客観的な因果関係の把握、を困難にします。 自己責任論(自分原因説)は、それを主張する者にカリスマ性を与え、対外的求心力を高め、周囲に比して相対的なポジショニングを高める効果を与えます。

そして同時に、弱者や被害者に対し「賢くなれた筈なのに、馬鹿だった”あなた”に全て責任があるんですよ。」 或いは、「頑張れた筈なのに、努力しなかった”あなた”に全て責任があるんですよ。」或いは、「加害や犯罪や債務不履行や不法行為をする様な、程度の低い人々と関わった”あなた”に全て責任があるんですよ。」

「そもそも今ある苦境や逆境は、全て”あなた”が悪いんですよ。」と言って、眼の前で泣き叫び、藻掻き苦しんでいる弱者や被害者を封殺し、彼らから噴出する不満や苦情や鬱憤や怒りを封じ込める効果を与えます。

この自己責任ロジックでは、生まれた時代が戦乱の世だった。生まれた親や家庭や場所が最悪(ex.孤児・みなしご)だった。学校の同級生や上級生にやられた。職場の上司や幹部にやられた。 その場に居らざるを得なかった。その人間と付き合わざるを得なかった。

そこしか相手をしてくれる取引先が無かった。 といった不可抗力や諸事情や限界的状況によって、加害や犯罪やハラスメントや債務不履行や不法行為を被った様なケースであっても、 全て「やられた”あなた”が悪いんですよ!」という浅薄なロジックで、一蹴しようとしている訳です。

従って、自己責任論(自分原因説)一本槍が、明々白々な誤謬ロジックである事は明らかで、 寧ろそれは、弱者や被害者や下々の立場に置かれている庶民といった力の無い人々に対し、 一発で有無を言わせない様にさせる為の、社会的強者や加害者によって考案された、悪意に満ち満ちた考え方である。と言えます。

つまり自己責任論(自分原因説)は、現在時点に於いて「強者(加害者を含む)」の側にいる者に、最も都合が良くできていて、 巷にある雑誌や書籍や新聞や放送といった、マスメディアから得られる情報の大半は、「強者が発信している。」「強者が発信する権限を持っている。」という事です。


しかし、だからと言って、私は他者責任論(他人原因説)が正しいとも考えていません。他者責任論(他人原因説)は、他人に責任転嫁ばかりする様な、程度の低い在り方だからです。

そうした態度は、人からの反感や反発を買い易く、一般的に人の輪から受け入れて貰えず、現実的な対人関係や社会関係に於いて、 他者責任論(他人原因説)が大きなディスアドバンテージになる事はあれど、大きなベネフィットをもたらす事は殆どありません。


ここで重要な事実は、GoogleやAppleといったビッグベンチャーの数々が創業の地として林立している有名なシリコンバレーのあるフロンティア開拓精神の国アメリカ(米国)を見てください。 米国は訴訟大国と呼ばれています。

という事はつまり、日本よりも圧倒的に多くの訴訟によって、日本よりも圧倒的に多くの被告人に賠償の支払いが命じられています。
圧倒的に多くの訴訟が為されているという事の意味合いは、アメリカでは日本よりも他者の責任を追求しようとする態度が強いのである。

という事を意味します。例えば、当たり前の事ですが、 日本でも一般に交通事故が起こった場合、警察官が来て自分のクルマと相手のクルマとで現場検証をやり、事故の過失割合を算定した上で、損害保険が支払われますよね?という事です。

要するに、自己責任論(自分原因説)が正しいのか、他者責任論(他人原因説)が正しいのか、という問題は、個別的状況の程度や関係各人に係る、様々な因果や経緯や事情といった膨大な情報を踏まえ、理性的に思案し裁定すべき問題なのです。

つまり、状況状況に即した問題でもあるし、主張する立場の人間が強者か弱者かによっても、その行為自体の企図や意味合いが異なって来る為、一概には言えない問題である。責任論に係る議論は、個別的な状況性が論点となる煩雑で難しい問題である。という事です。

だからこそ、事案一件一件について膨大な情報を踏まえ、精査し検証するのが面倒で手間である為、責任論については社会制約上、本来的な議論が成り立たない為、事案一件一件についての煩雑で難しい問題なんて、一瞬でスパッと処理して行く方が楽だから、

社会のデファクトスタンダードになる言説としては、「自己責任論の方がが正しいんです。(キリッ)」「自己責任がこの世の真理です。(ドヤァ)」「この紋所が目に入らぬか。(ヒカエオロウ)」という事で、画一的に一刀両断されているだけなのである。
という事です。

また、方法的態度と分析的態度とは分けて考える必要があると思います。つまり、対外的には自己責任論(自分原因説)を方法的な態度として採る事が妥当であろうと思います。

そして、過去を将来の糧として反省し、当時の因果関係や環境を分析し、自分の戦略的な知性を高める事を目的とするならば、自己責任論(自分原因説)と他者責任論(他人原因説)とは、折衷的に混ぜて考えるべきで、

個別的状況に即して立脚する視座を変えたり、臨機応変に思考対象とする事案毎のケースバイケースで、その因果関係や内外環境について複雑性を踏まえつつ、より客観的且つ俯瞰的に正しく認識する必要がある。
と私は考えます。

何故ならば、「因果関係や内外環境を、より客観的且つ俯瞰的に正しく認識する。」という事ができなければ、何時まで経っても個人の知性は低いままであり、 という事はつまり、因果関係や内外環境を自責か他責かの、いずれかに傾斜偏向したバイアスを掛けて見て仕舞っている。という事になります。

そうなれば必然的に、自分が置かれているゲームそのものをハックする為の戦略性や、彼と己のゲームに於ける構造的・因果関係的な本質を見出し、 その本質をハックする為、周囲の雑音を振り払い、日々の実践に於ける内発的動機づけをし、目指す目的へと突き進む。

といった個人の総合力を向上させ、置かれた環境や与えられている条件に左右されず、優れた高い結果を出し続ける。という事が難くなります。 特に、自己責任論(自分原因説)一本槍で、自分に原因の無い要素までをも、自分に帰属させよう。とする愚昧な態度に終始していれば、 その個人は外部環境や因果関係という客観(真実)に対する客観的認識に劣る為、いずれ負け組になって仕舞う可能性が高くなります。

何故ならば、自分自身に原因の無い要素までに対して、こじつけ的な意味合い(理非)を、過分に見出そうとする心的な試みというものは、 昔々を生きた前近代的な人物像になる程、より特徴的に見られる滑稽で蒙昧な観念の在り方だからです。

歴史的な視点から言って、前近代的な人物像が持つ観念構造は、ほぼ必ず「出自」「運」「自然」等といった偶然性に対し、 「天命」「吉凶」「占」「おみくじ」「信仰する宗教の教義的解釈」「御都合解釈」等によって、こじつけ的な意味合いを過分に見出して来た
からです。

つまり、起業家や経営者や有名人といった大成功者が、表向きのメディアで「自己責任論(自分原因説)だったから私は成功できた。今も自己責任論(自分原因説)を当然の如く徹底している。(キリッ)」といった言説を採る理由は明らかに、

「自己のカリスマ化と対外的求心力の強化を目的として、自己責任論(自分原因説)を標榜している。」尚且つ「対外的には自己責任論(自分原因説)を、 あくまで方法的な(世渡り的な)態度として採っている。」というだけの誰でもが、普通に為している態度である。
と言える訳です。

だから、当然その大成功者は、もし人事部が競争力の低い無能社員を連続して雇用する様なヘマをして仕舞えば、人事部の長を咎め(テメーコラ)、もし次に二の轍を踏んだら、降格か減給か解雇する(コノヤローオボエトケヨ)。と言い、

もし営業部が温めてきたビッグプロジェクトの契約調印に、失敗する様なヘマをして仕舞えば、営業部の長を咎め(テメーコラ)、もし次に二の轍を踏んだら、降格か減給か解雇する(コノヤローオボエトケヨ)。と言うでしょう。

こうした状況が自己責任論(自分原因説)と他者責任論(他人原因説)とを、事案毎のケースバイケースで折衷的に用いているという態度の例です。 しかし一つだけ確実に言える点は、人物が優れている者ほど、自己責任論(自分原因説)まで遡る度合いが深くなるという点です。

つまり上記のケースで言えば、 上長の職能職責を高めず放任放置していたのは誰か?人事部の長に据え営業部の長に据え、という人事決定を下したのは誰か?そもそもこの二人の長を雇用したのは誰か? 自社の幹部候補となる人材を募集するに当たり、ある特定の労働市場を選んだのは誰か?といった視点まで遡る事ができる人ほど、成功者になり易い。という事です。

何故ならば、学習や自己啓発や体験や反省によって、外的環境に則した適者生存という意味で、確実に変えられる事ができるものは、 「未来の自分」「過去の自分」「未来の他人」「過去の他人」という四者ある内の「未来の自分だけ」だからです。

逆に言えば、他者や他人による過失責任が何割かあるにせよ、そこだけ見る事に終始し、原因を何処までも他者や他人に求めている限り、 置かれた環境に於ける適者へと向かう自発的・主体的・率先的な変化は、何ら生まれない訳ですから、個人的にも社会的にも経済的にも国家的にも、適者生存は成り立たなくなる。という事です。

ところで何故、私が四度、再起不能となったかと言えば、近所に禅寺のある地方田舎で生まれ育ったという環境から、 私は幼少時より清く正しく美しくを信条(美徳)としており、大人になっても素直で正直そして性善説、且つ、博愛主義で生きていたからです。

子供の頃から事ある毎に「人様に迷惑を掛けてはならない。」という道徳観念を、色々な場面で刷り込まれて来た。様に感じています。 そうした雁字搦めの柵檻観念が過ぎて、学校の教室で先生の問いに対する答えを、私一人だけが判っていた様な時であっても、全く手を挙げられない(自発的な挙手ができない)子供でした。

そんな清く正しく素直で正直だった私が今まで、騙されたり・嵌められたり・奪われたり・虐げられたり・搾取されたり・傷を受けたりした回数は、小さい経験も含めれば、ゆうに100回は軽く超えていると思います。

家庭・親戚・地域社会・学校・お寺では、清く正しく素直で正直であれ。と、私は教えられて来た訳ですが、この綺麗な心の在り方によって嵌められまくり、先述した通り、四度も生きるか死ぬかのドン底へ落ちました。

従って、清く正しく素直で正直に育てば、そのうちいつか下衆悪人にボロボロにされるまで奪われ踏み台にされて、下衆悪人から加害を受けまくった挙句、その被害者は自己責任論によって、怒りや声を完全に封殺されて仕舞う負け組へと至ります。

だから素直で正直な育ち方は、私たち市民にとって望ましい賢い在り方ではありません。寧ろ、非常に愚かな在り方です。綺麗な心の在り方をしている人は、先ず以って、ロジカルシンキングやクリティカルシンキングといった、穿った思考回路が必要です。


つまり何が言いたいかと言えば、自己責任論(自分原因説)が正しいか?とか、学校教育で教えられている事が正しいか?とか、 お寺のお坊さんが喋る宗教的な法話が正しいか?とか言った事、基本的にそれらは、「人間による作り事(虚構)である。」という認識を、私たちの誰もが持つ必要があります。

はたまた、ポジティブホワイトキレイワールドについて熱心に語り、私たちをポジティブホワイトキレイワールドの虜にさせようとする、 有名な人・地位ある人・成功した人・金持ちな人・偉い人・権威ある人・権力ある人、についても、その強い影響力によって、 学校の先生やお寺のお坊さんと同じ類の機能性(観念支配)を有している。という事を、私たちの誰しもが肝に銘ずる必要があります。

要するに、そうした人々の話が高らかに掲げている崇高で高邁な「理念」や「ルール」や「ヒエラルキー」の中へ、そうした人々のする話を素直に聞いて従おうとする者を、 さも立派で真っ当に誘い導くように見えて、その実質は、 自己中心主義(egoism)+拝金主義(mammon)とが大いに活用された、

ドス黒い体制支配側に居座っている権力(私人法人)や牧羊犬(私人法人)にとって、甚だ都合の良い二次的な原理が支配する共同体社会の一員に成るよう、 そのヒエラルキー末端から(ある意味で弱者として)エントリーする事を、半ば強制させている。というだけの事です。

この構図の卑劣さを喩えるならば、例えば、剣道の竹刀を用いてムサシとコジローの如く、生死を賭けた巌流島の決闘をやろう!と言い出し、 決闘の申し出を受諾した片方は、正々堂々と竹製の竹刀を持ち、決闘の申し出を提案したもう片方は、内部に真剣を忍ばせたドス黒い竹刀を持って、 双方が全力で闘った場合、どちらが天下に名を馳せ、どちらが敗者の汚名を着せられる事に、なるのでしょうか?という事です。

だからこそ、こんな話をしてでも、体制支配側(権力)にタイマンを張ってでも、私たちが自主的に市民のチカラ(観念構造+経済構造)を強くして行かなければ、 民権(@御花畑)は国権(@ドス黒)に対して弱いまま。という事になり、それはつまり、 不自由・不公平・不当性・閉塞感・格差・殺伐・隷属・蒙昧、といった社会的課題は是正されず解消されず、私たちの未来は明るくならないからです。

インターネットが十分に普及して、人々の知性が高まっている時代である訳ですから、 もはや包み隠す事なく「作り事は作り事である。」「そもそもが大嘘っぱちの虚構である。」 「市民の大多数を気持ち良く洗脳して、信じ込ませているだけだよ~ん。あっかんべ~。べろべろば~。/(^┰゜)」と公明正大に言えば良いのです。


何故ならば、成人した大人として厳しい社会を生きていれば、遅かれ早かれ誰しもが、それに気付く事だからです。 そして、どの道インターネット上の言論の場で指摘や議論が為され、遅かれ早かれ、いずれにせよ言わずもがな的に、誰でもが知る自明なものとして扱われるからです。故に、 私たちの綺麗な心の在り方や予定調和というものは、無知蒙昧の純粋馬鹿にさせられているだけなのである。と公明正大に言えば良いのです。

だから私たち一人一人は目を覚まし、気付かなければならないのです。目の前にある事象の数々はドス黒い悪意によって企図されているという事。 そして、そもそも現実(客観)に妥当する原理原則というものは、一部にシンプルなものもあれど、その多くは複雑で厳しく難しいものであるという事。

自然科学に於ける法則や定理や数式や分子式といったものの難解さや、学者が一つの結論を導き出す為に、書いている提出論文数や参照論文数の膨大さを考えてみれば、 現実(客観)に妥当する原理原則というものは、少なくともイージーでは無いよな?

もし現実(客観)に妥当する真理の探求がイージーならば、 世界各国で莫大な国家予算が投じられ続けているのはおかしいよな?だったらば、学者やリサーチャーは苦労してないよな?

といった事くらいの道理は、容易に導けるかと思います。 逆に言えば、現実を認識する上でのイージー主義は、殆ど常に客観的妥当性を欠く蒙昧な在り方である。と断言しても過言では無いかと、私は思います。

よくあるイージー主義の例としては、ステレオタイプ・レッテル・ラベリング・シンプルイズム・一辺倒・至上主義・只管主義・勧善懲悪・二元論・白か黒か、善か悪か・無謬主義・満場一致、といった認識の在り方を指します。

要するに、ものごとの複雑性を拙速に捨象しよう。とする認識の在り方を指します。 もっと的確に言えば、読書量や学問歴や人生経験やリテラシーが低い人々に対して、より彼らを速やかに頷かせ興奮させ賛同させる類の「馬鹿の一つ覚え」をさせよう。

哲学的思索(そもそも論)を考えない様にさせよう。情報を遮断し視野をブラインドにさせよう。忙殺させ脳味噌ヒーヒー状態にさせよう。思考停止させよう。判断停止させよう。(デュフフフフフフ)(グヘヘヘヘヘヘ)

と企図するドス黒い悪意に満ちた発想がイージー主義であり、 そのイージー主義にまんまと引っ掛って、無知蒙昧にされて仕舞っている社会階層にいる人々が持っている認識の在り方が、「反知性主義(イージー主義)」であると言えます。即ち、情報弱者という事です。

また拝金主義にせよ、仕組まれた「イージー主義」の一形態であると言えます。何故ならば、拝金主義は「カネさえあれば、どんな問題でも一瞬で全て解決!」「カネさえあれば、御殿様・大先生・神様仏様・偉人聖人!」という発想をさせるからです。

しかし、現実はカネがいくらあっても解決しない問題は鬼の様に存在しています。 一例を出せば、人命・健康・病気・時間・対人関係・環境汚染・生態系・観念構造・社会構造・経済構造、といった「覆水盆に返らず」的な性質のある問題は、ある状態が一たび生ずれば、もう元には戻らない。

という不可逆性があるワケですから、不可逆的な(物質的・生物的・時間的・精神的・構造的)問題は、たとえ千億円を投入しようが千兆円を投入しようが、カネでは解決できません。従って、全く以てカネは万能ではありません。

私たちは、この拝金主義が仕組まれた「イージー主義」の一形態であり、私たち人間が採るべき客観への認識としては、大きな誤謬(誤り)を孕んでいる。という事に、気付かなければならない。と私は考えます。

もっと言えば、カネ(拝金主義)というものの本質は、権利権力・支配被支配・自由不自由という私人相互の関係性に於ける、謂わば「交換券」に係る程度の多寡であって、私人相互の相対的な強弱関係を決める為だけの道具(tool)に過ぎない。ある意味、人間同士によるマウンティングの道具@猿山である。といっても過言では無いと思います。




そもそもを言えば、国家や人権や自由や貨幣や法律や宗教や道徳や歴史といった、主に近代に於いて人間が観念的に構成した「観念による産物」というものの本質は、吉本隆明が指摘した様な言葉で言えば「共同幻想」である訳です。

これを端的に言えば、「みんなが信じているという事によって、成り立っている。」「みんなの観念構造によって、実体構造が本当にあるかの様に仮想されている。」 「みんなが信じているという事によって、本当に実在しているかの如く、極めてナチュラルに錯覚している。」という事です。

そして、現代という時代に通用している「共同幻想」の多くは主に、英米仏独といった西洋先進国の近代によって発明されたものです。 もし仮に、みんなが「共同幻想」を信じていなければ、国会議事堂も役所庁舎も刑務所も裁判所も学校も、木と鉄と石と砂とでできた遺構・残骸・廃墟に等しい。

という事になります。 故に、「観念による産物」は基本的に虚構であって、人間を含む生き物が棲む世界に於いては二次的な原理です。 二次的とはつまり、「地球上の生物界に於いて普遍妥当する根源的な原理では無い。」という意味です。


但しここで重要な事は、国家や人権や自由や貨幣や法律や宗教や道徳や歴史といった「観念による産物」である「共同幻想」を前提として、 私たちの経済活動や社会活動は成り立っているのだから、私たちが安全で便利で快適な文明文化を享受できる経済社会で暮らしたいと望む場合、 少なくとも表向きの建前上は、二次的な原理を尊重しなければならない。という事です。

もし、「それをしない」という場合、どういう事になるかはお分かりですよね?例えば、「北斗の拳」の様な修羅の世界をご想像ください。トマス・ホッブズが言う所の「万人の万人に対する闘争」です。 だから、作り事や虚構や嘘っぱちであると分かっているとしても「みんなが一応は正しいと思っている考え方やルール」の上に、 乗っかって(文明を享受して)生きて行こうとするならば、二次的な原理を尊重し遵守する必要がある。と私は考えます。

しかしながら、二次的な原理は、観念支配・事前的畏怖・事後的制裁・事後的賠償といった要素が、人間に義務を履行させる主なので、全く以て完全な原理ではありません。 もし教育や司法や警察といった公共部門(国家機関)の機能性が不十分ならば、二次的な原理はザルと言えばザルです。

二次的な原理を尊重しない人々、二次的な原理を悪用する人々、義務を履行せず権利だけを叫ぶ人々、等がどの時代にも一定数存在する以上、全く以って不完全な原理です。
ならば翻って、一次的な原理は何か?と言えば、地球太古の昔より遍く生物界に於いて最も根源的に働いている「弱肉強食」「適者生存」「優勝劣敗」という自然法則です。

冒頭で、「体裁や形式や規範や秩序を重視する」様な類の方には相応しいコンテンツではない。と記述しましたが、 成長戦略研究所は「弱肉強食」「適者生存」「優勝劣敗」という一次的な原理が根源的に支配している人類世界に於いて、

各個々人が自分を高め強く賢くなり、 その置かれた環境に対し、この限り有る生(実存)を、ひたむきに生き抜こうとするサバイバル(生き残り)を志向する会社です。
だからこそ、個人・法人・経済社会・国家に共通する相応しい言葉として「成長戦略」と銘打った次第です。

若い時分の私個人は、間違いなく幼少期より受けてきた教育や宗教や漫画やメディア等によって、何時しか二次的原理が一次的原理に優先する。と錯覚(誤認)していた訳です。 何故ならば、近代以降の国家に於いては、教育や宗教といった二次的原理を一次的原理よりも先んじた、発達的アプリオリに与え続けようとする仕組みになっているからです。

そういう訳で、私は先述した様な壮絶な個人体験の遭遇や蓄積によって、私は相当程度、若い頃と比べて考え方を軌道修正し、在り方を変えて行かざるを得ませんでした。 私の18年前と今とを比べれば、まるで別人の様に変わったと思います。

おそらく自己啓発をするという事の本旨は、中国の『孫氏』に「彼を知り己を知れ」とある通り、 外的環境という客観(真実)にそぐうよう主観である自分を変えて行く営為に他ならない。と、私は体験的に感じました。



さて、私は二十代の時分から何度となく訪れた、ドン底と逆境からの這い上がりの為、暇があれば自分なりの自己啓発や自分を変えようとする努力をして来た。 と自負できる類の人間ですが、最近になって「100年先の将来、もし自分がこの世から消え去り、 永久に墓地の中に眠る事になるのだとしたら、残る自分の余生に於いて、何をこの世に残せるだろうか?」という問いについて、次第に考え始める様になりました。

こうして私が伝えようとするこの文章を読んで、「まだまだ若いな。青二才かよ。」「いい年をして恥ずかしくないの?」「何様のつもりだ?」「世の中そんなに甘くないだろ。」 「阿呆くせえ。」「くっだらね。」「どうせ綺麗事じゃねえの?」「できるわけねーだろ?」「何時までも夢見事を言ってろよ。」「おめえ詐欺師じゃねーの?」

「キャハハハハ。」「クスクス。」「プギャー。 m9(^Д^)」 「有名人でも大物でも大金持ちでもないのに、そんな大それた事を考えるなんて、ガチで馬鹿なの?」「頭おかしいんじゃないの?」 といった風に、受け止めて仕舞う方も、残念ながら一部にはいらっしゃるかもしれません。しかしながら、本当にそうでしょうか?本当に?

そうした考え方というのは、有名人か大物か大金持ちか、即ち、「既に持てる側」まで上がっている人間が意見を述べるのならば、 耳を傾けてやる。話を聞いてやる。著書に目を通してやる。講演に出席してやる。という事で、私が冒頭で既に指摘した通り、愚の骨頂である。

という事です。 つまり、完全に権威主義に毒され切っている。学校教育や社員教育等によって施された現行体制による観念支配の柵檻から抜け出せていない。 よって、残念な思考回路が自覚するまでも無く形成されて仕舞っている。という事です。

ならば問いましょう。 吉田松陰は、松下村塾を開塾した当時、有名人か大物か大金持ちでしたか? ジャンジャック・ルソーは、懸賞論文への寄稿を執筆していた当時、有名人か大物か大金持ちでしたか? カール・マルクスは、小冊子版の「共産党宣言」を執筆していた当時、有名人か大物か大金持ちでしたか?

つまり、誰しも初めから有名人や大物や大金持ちである人物など存在しないのだ。という事です。 「自分は有名人じゃないし、」「自分は大物じゃないし、」「自分は大金持ちじゃないし、」 そんな馬鹿馬鹿しい手枷足枷や柵檻観念を、何ら気付く事も無く、無意識的に着せられ被せられているからこそ、

私たちの大半は、最初の第一歩目となる片足を前へ踏み出す。という事ができなくなるのです。 その第一歩目を踏み出す事ができなければ、私たち自身が有名人や大物や大金持ちになる事はできますか?


また、ある全く別の視点として、これは「歴史の全ては必然である。」といった決定論的歴史観によって判断されておられる方からすれば、馬鹿馬鹿しい話かもしれませんが、 ならばもし、吉田松陰が志半ばで夭逝していたら、ならばもし、ジャンジャック・ルソーが志半ばで夭逝していたら、ならばもし、カール・マルクスが志半ばで夭逝していたら、 歴史はどうなっていたか?という事を想像してみてください。

ならばもし、小林一三が夭逝していたら、ならばもし、出光佐三が夭逝していたら、ならばもし、鳥井信治郎が夭逝していたら、 ならばもし、松下幸之助が夭逝していたら、ならばもし、本田宗一郎が夭逝していたら、ならばもし、盛田昭夫が夭逝していたら、 ならばもし、藤田田が夭逝していたら、ならばもし、稲盛和夫が夭逝していたら、ならばもし、小倉昌男が夭逝していたら、 今ある日本の産業界はどうなっていたか?という事を想像してみてください。

もし歴史をダイナミックに変えられる程の 「世を変えようとする着火剤(火種)」や、「波紋を呼び起こす様な石」が、嘗て人類の歴史に投じられる事が無かったならば、 今現在に於いて、この人類世界はどれほど旧態依然とした蒙き前近代的社会体制(アンシャンレジーム)のままだったでしょうか?という事です。

よって、私はそうした想定される批判に対し、「自分が本気で調べ考え抜いた意見を述べた文章を人様が読んでどう思うか?」といった事について、 憂慮したり懸念したりする事は、余り意味がない事である。というか寧ろ、無駄な事である。と思う様になりました。

何故ならば、「人様がどう思うか?」について、どれだけ憂慮したり懸念したりしようと、どれだけ批判されたり馬鹿にされたりしようと、 「絶対的に100年先の将来は、昔々に死んで行った祖先の膨大な累積に含まれる内の、名も無き一人として永久に墓地の中に眠っている。」からです。

下手をすれば、一年先や十年先であっても、自分自身がこの現世に生き長らえていられるか?という確証さえ無いのです。 もし運が悪ければ、事故や災難で大怪我をして、明日にでも死んで仕舞う事だってあるかもしれません。

もし運悪く、地震・津波・落雷・交通事故・暴漢・大喧嘩・火災・転倒・転落・土砂崩れ・水難・食中毒・病害虫・野獣・ ウイルス・UFO・拉致・テロ、等に遭って、もし致命傷を負って仕舞えば、ひとたまりもなく一瞬で終わりです。 もし北の国から核爆弾を積んだミサイルが飛来して来れば一瞬で終わりです。

よって私たち個々人にとって、「余りにも自明なものとして、今ここにある生が何時までも続く。」という錯覚をする事。 そして尚且つ、生前に誰の言う事も聞かず好き勝手をやり、もし死んだら死んだで「後は野となれ山となれ。」と言って、

「ワシが死んだ後、この現世に残される奴らの事など知らんがな。んなもんどうにでもなれや。があ゛~ぺっ。 。(゜Д゜メ)」といった具合に、考える個々人が増えるからこそ、 この現世は苦しみや悲しみに満ち満ちた在り方から、なかなか改善されては行かないのである。
と私は考えます。

またコンプライアンス的な点で見ても、インターネット上で自分の考えた意見を述べる。という事については、日本国憲法上、「言論の自由」として精神的自由権を保障されています。 だから本来、老若男女に関わらず、情報を発信する人は、「人様がどう思うか?」といった事について、市井に居る私たち各個々人は、過度に怖れたり憚ったりする事なく、 自分自身が頭を振り絞って考えている事を、自由に堂々とジャンジャンと述べていい。と私は思います。

そして今ある極東ヤマト國の体制の在り方といった既存構造や、政府や大企業や宗教といった強者の在り方を批判する言論を為した者が、もし日陰や水面下で秘密裡に、闇に葬られる(抹殺される)のならば、もはやそんな恐怖政治の国に未来はありません。

仮にもし、今ある体制や社会の在り方を、公の言論空間へ向かって、正々堂々と批判批正する事が許されないのであれば、近い未来の私たちは国際競争に負けまくって、諸外国の人々による実質的な奴隷的ポジションにでも成り下がりますか?

実質的な変形帝国主義である現代のグローバリズムは、生き馬の目を抜く弱肉強食の世界ですよ?日本人よりも遥かに性悪説が主流となっている、諸外国の発想は「早い者勝ち・我先に食う(first come first served)」であって、モタモタと出遅れて居る日本を、悠長に待ってはくれはしませんよ?


ありもしない嘲笑や批判までを脳内で考え出して、それによる不安や懸念や心配で頭の中が埋め尽くされ、未だ何ら起こってもいない事を、過度に怖れる事によって、沢山の人々が萎縮して仕舞い、 「そもそもこの仕組みっておかしくない?」「そもそもこういう考え方っておかしくない?」

「本当にこのままで良いの?」「既に相当ヤバい状況に突入してるんじゃないの?」 「日和見で良いの?」「他人事で良いの?」「事勿れで良いの?」「御満悦ホルホルで良いの?」「御花畑で良いの?」「小市民のままで良いの?」

「茹でガエルで良いの?」「見す見す指を咥えていて良いの?」 「井の中の蛙で良いの?」「裸の王様で良いの?」「酸っぱい葡萄でいいの?」 「ハーメルンの笛吹き男で良いの?」「牧羊犬の尻叩きで良いの?」「負けゲーム負けルール上で踊らされる駒で良いの?」 「ジャンク消費財づけ廃人が増えて良いの?」

「親の年金に集るヒキニートが増えて良いの?」「ブラック企業温存で良いの?」「ワーキングプアが増えて良いの?」「自由や人権の軽視で良いの?」「蒙昧愚民奴隷で良いの?」 「イージーカムイージーゴーで良いの?」「ヒュージピラミッドスキームで良いの?」

「みんな唯我独尊で良いの?」「みんな保身保全で良いの?」「みんな己さえ良ければで良いの?」「自己中心主義のままで良いの?」「権威主義のままで良いの?」「拝金主義のままで良いの?」 「愚民政策のままで良いの?」「隷従隷属のままで良いの?」「反知性主義でのまま良いの?」

「経済保守主義のままで良いの?」「寄らば大樹の陰のままで良いの?」「資金調達難のままで良いの?」 「安定志向のままで良いの?」「柵檻型枠規範に縛られて居て良いの?」「若年青年が草食化して良いの?」「サイレントテロが増えてで良いの?」「詰め込み型画一的教育のままで良いの?」

「旧態依然のままで良いの?」 「悪習旧弊因襲を放置して良いの?」「どんどん萎みゆく限られたパイの奪い合いで良いの?」「周囲比較価値基準で良いの?」「シンクスモール(視野狭窄)で良いの?」「シンクニア(近視眼的)で良いの?」 「理不尽不条理(不当性)が蔓延って良いの?」

「生殺与奪を握られて居て良いの?」「弱肉強食になって良いの?」「格差拡大して良いの?」「閉塞感が充満して良いの?」「社会不安になって良いの?」「日本凋落しても良いの?」 「国際競争に敗北して良いの?」「豪華客船の泥舟化で良いの?」「オルタナティブを創り出さなくて良いの?」

と問い、 公に声を上げられる市井にいる個人の数が、全体に対して多くないからこそ、世の中に旧態依然とした観念や悪習や旧弊や因襲や古い価値観が蔓延り、旧態依然とした仕組みや構造が、なかなか良い方に変わって行かない理由だ
と思います。 何よりも「糞なものは糞だ!」「みんな茶番だって知ってるわ!」「馬鹿馬鹿しい愚はもう止めろよ!」と言える勇気が大切です。

オブラートに包んでやる必要も、美しい真っ白なベールで包んでやる必要も、裸の王様が着るエアーな衣服を激賞してやる必要も、本来的には無いんです。幾度と無くパラダイムシフト(paradigm shift)や、社会構造の革新(innovate)を繰り返して来た人類の歴史に於いては、頭の良い人間(小利口)よりも、勇気ある人間(勇者)こそが貴いんですよ!

何故ならば、頭の良い人間(小利口)は、ひたすら己だけを守ろう守ろうとしますが(For 一個体)、勇気ある人間(勇者)は己の生き死にさえ、理想の実現に賭けようとする(For 全個体)からです。ならば、そのどちらが貴いか?という問いなど、火を見るよりも明らかですよね?

小利口(cagy/coward)は「黒いものを白い」と平気で何の躊躇いもなく言う人間です。即ち、嘘を付き嘘を語ります。しかし、勇者は「黒いものを黒い」と言える人間(brave)です。即ち、真実を語ります。 つまり、私たちの社会にとって、勇者の数は相対的に「貴重」である。という事です。「黒いものを黒い」と言える勇者の貴さは、喩えれば、鍵や財布や時計と同じく、社会にとっての貴重品である。という事です。

東西の歴史を踏まえても、その時その時のアンシャンレジームに対して、勇猛果敢に挑んで勝ち残り初代皇帝となった人間は、必ず武勇と知略とに富んだ勇者だった筈です。決して小利口で矮小な人間では無かった筈です。日本で言えば、中大兄皇子や足利尊氏や徳川家康や伊藤博文です。

だとすると、たとえ声を上げようとする言葉の中身が今の御時勢に於いて、一般的でない様な考え方であったとしても、奇抜で突飛な考え方であったとしても、超マイナーな考え方であったとしても、公に意見し公に問う事を、柵檻を着せられて自粛的に怖れる必要なんか無いんです。

怖れ憚り忖度して仕舞う、不自由で施錠的な柵檻観念から抜け出せないからこそ、沈黙は金へと自発的にオプティマイズする人々が増え、何時まで経っても世の中の仕組みは、一向に良い方向へ変わっては行かない。という事です。故に、声を上げる事は余りにも重要で大切な事です。


但し、「法」に抵触する内容や、誰かの自由や利益を直接的に侵害して仕舞う様な内容は、できる限り慎む方が良いと思います。 何故ならば、身の回りに無意味な争いが増えれば、時間に限りのある貴重な人生を、本来やるべき事に集中できなくなるからです。 しかし原則は穏便にであっても、原則があれば必ず例外があります。

その理由は、私たちが本来あるべき姿というものは、佐久間象山が吉田松陰らに進取開明と文明開花の思想に基づいた尊皇攘夷を教え諭し、 最終的に国内全体を新旧による大戦乱に陥れる事なく、

封建の世に在りながら、相当に開明的な方途によって大政奉還(明治維新)を実現した通り、シンクビッグを期そうとする在り方の優先順位は、「理 > 法 > 情」です。 つまり、普遍性や永続性の根源である「理」(真理)を最優先するべし。という事です。

例えば、ある「法(公法・私法)」を律儀に(馬鹿正直で糞真面目に)遵守し続けた結果、日本の国自体が実質的に滅んで仕舞うのならば、その「法」は悪法であって「理」には適わない。 だから、私たちの本来あるべき姿、即ち、私たちが自分自身で行動の礎とすべきものは、決して「法」では無く、「理」(真理)である。という事です。

現行の薩長土肥藩閥末裔末派政府とて、信州松代の山奥に象山神社として立派に奉られている佐久間象山の説いた「理」こそが、現体制の存立基盤なのですから、 個々人に於ける行動の礎として、その根っ子に「理」を否定する事は、誰にもできないのです。


幕末維新の志士がそうであった様に、 どの道100年先の将来は永久に墓地の中に眠っているのだから、私たち一人一人は生きている間、自分が抱いた理想と目的とに従って現実と戦い、 できる限り頑張って奮闘する事をしなければ、自分が生きた証さえ残す事ができない存在なのだ。と私は思います。

しかも、もし今現在を生きている平成末期の我々世代が、この落ちぶれ行く厳しい現実と戦い、できる限り頑張って奮闘する事をしなければ、私たちより後の世代を生きる人々から見れば、「平成末期の時代は、 全面的に日本の経済社会という国の凋落が決定的に予測できていた時代なのに、十年以上前から凋落する事が分かって居ながら、藻掻きも足掻きもしなかった、日和見で他人事で事勿れで御花畑の腰抜け小市民の集まりしか居なかった暗黒の時代だ。」

「それによって、後の世代に生きている私たちの国際競争力は脆弱で、諸外国からの国際的圧力に立ち向かう力も無く屈辱的で、20X0年代の日本に生きている大半の庶民は、昭和や平成の時代に比べても、圧倒的に貧しく苦しく惨めな生活をしている。 まるで諸外国から経済的に支配されているかの様だ。」「このままでは日本人は種として淘汰されて行く。このまま放って置けば日本が消滅して仕舞う。」

「あぁ神様、どうか古き良き豊かな日本に戻して欲しい。しかし経済社会の構造は不可逆的で、もはやどうにもならない負けゲームに嵌って仕舞っている。」 「平成末期の時代を生きた居た人々が採った行動は、日和見不作為イコール未必の故意とも言え、あいつらは日本を消滅させた実質的なA級戦犯だ。」

「貧しく苦しく惨めな生活をする以外に無い、経済奴隷とも言える低落した国際的地位へと、俺たち日本人を落としめた平成世代は絶対に許せない。」といった余りにもネガティブな烙印が、平成の今を生きる私たちに押される事は必至
である訳です。

勿論確かに80年代のプラザ合意や、90年代のバブル期から日本経済凋落の兆しは始まっていた訳ですが。ただ今の平成世代を包括的に概観すれば、 その凋落トレンドを自らの意志で変えようとして抗う事も無く、為す術も無く日和見や他人事や事勿れをした結果としての不作為。

そして「中高年による姑息な逃げ切り」を放置して仕舞った。
という点は否めないでしょう。 それ故、だからこそ近い将来、国際政治経済競争ゲームに於ける日本の不可逆的な敗北(負け)が確定しつつある。という訳です。

幸いにして、今の時代はインターネットという高いレバレッジの効く素晴らしいツールが存在し、私たちは文字を読み書きする事ができ、それを公に発信する事が保障されているという人類の歴史上、 この上無いほど有り難い素晴らしい時代に生を受けているのです。

そうであるならば、「人様がどう思うか?」といった、いくら脳内で考え続けても意味の無い事柄について、 日本の将来を想う矜持ある私たちが、どうしてそんな下らない事を怖れて萎縮したまま、唖黙り沈黙を続けている必要があるというのでしょう?

大きく声を上げれば良いんです! 「糞なものは糞だ!」「愚はもう止めろよ!」「させるかあ!」と、歯に衣を着せぬ大きな声を声高に、私たちの誰もが上げて行かなければ、現実は何も変わらないんです!御先真っ暗な日本の将来は変わらないんです!


太古へと遡れば、クロマニヨン人もネアンデルタール人も中臣鎌足も源義経も楠木正成も織田信長も天草四郎時貞も 大塩平八郎も土方歳三も高杉晋作も板垣退助も東郷平八郎も乃木希典も石原莞爾も、はたまた遥か昔の時代に生きた、名も無き有象無象の人々も、 みな遥か昔の日々に於いて、僅か数十年という生涯を必死に生き抜いて、今はみな荒野か墓地の中に眠っています。

「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。」と芭蕉が詠んだ様に、 連綿と数千年は続いている人類の歴史に於ける、個々人の奮闘を大局的に見続けているものは、お天道様から日々、この地球という惑星を眺め続けている月日くらいなものでしょう。

何かを為そうとして為し遂げた人もいれば、志半ばでその生涯を終えた人も、数え切れないほど居た事でしょう。今この世を生きて存在している人々は、昔々に死んで行った人類祖先の膨大な累積からすれば、ほんの僅かなのです。

話を最初に戻すと、私が感じている事は、残る自分の余生をどの様に生きたとしても、最終的には高々100年以内に於いて、自分自身の肉は焼かれ、骨は永久に墓地に眠る事になります。そして、 昔々に死んで行った祖先の膨大な累積に含まれる内の一人という事になるのならば、「人間は生きている短い生涯の間に、何を為そうとするか?」

そして「自分が為そうと決めた事を、如何にして本気で実現させようとするか?」 という事が重要なのではないか?
と、色々な新旧の書物を読んだり、思索に耽ったりする事で、徐々に考え出す様になりました。 言い換えれば、私たち一人一人にとって本質的に大切な発想は、「何の為に今何をするべきなのか?」という事です。

少しだけ別の話をすれば、今私たち日本人そして人類全体が、少なからずの平和と繁栄を享受できている理由は、私たちの過去の世代に生きた人々が知恵を絞り、努力や苦労をしてくれた集積の賜物です。 ならば、地球の未来の人々にとって、私たちはその礎となるべき世代という事になります。

そして今私たちが文明の繁栄した平和な環境に生かされている恩恵と、その幸福に対する感謝と責任を果たそうとするならば、 私たち一人一人が「何の為に今何をするべきなのか?」という事を考え、「自分が為そうと決めた事を、如何にして本気で実現させようとするか?」という事を、主眼に置いた生き方が大切なのではないか?
と私は思います。

逆に言えば、それ以外の事について例えば、「人様がどう思うか?」といった事等については、そこまで気を取られるほどの大切な事ではない。という事です。いわば取るに足らない些事や瑣末というべきものです。 「人様がどう思うか?」という事を考えている視座というものは、怖れや懸念や保身といった自我(エゴ)による働きから生まれています。

つまり、自分事が肥大的中心となって行動に抑止が掛かっている。という事です。 でもそれは、突き詰めれば結局の所、「自分が一番可愛い。」「自分が傷つきたくない。」「自分をリスクに晒したくない。」 という極めて矮小な、つまらない在り方でしかない
のだ。という事を、分かって頂けるでしょうか?

そう考えるからこそ、今こうして沢山の人に読んで貰いたいと思って、真剣に意見を述べる文章を書いています。昔に生きた人々の話や、私たちの数十年後はどのみち死んでいるのだ。といった話を述べた理由は、

キルケゴール・ニーチェ・ハイデガー・サルトルといった「実存の思想」に、私がなかなか影響を受けているからです。そして、現象学を創始したフッサールの方法的な考え方に影響を受けました。 フッサールの考え方についての私の所感は非常に長くなるので、この場で述べる事はしません。

翻って「実存の思想」という考え方を総じて平たく言えば、 自分が何者であるのかは何ら決められていない。思考も行動も選択も何を為すも自分次第。蓄積した思考や行動や選択によって、後から自分が何者であったのかが決まる。 今こうしてこの世に一度しかない貴重な生を与えられているのだから、自分が死ぬるまでに残されている生の一日一日を大切に生きる必要がある。

そして、生を大切に生きるとは、「何の為に今何をするべきなのか?」という事を真剣に考えて、 その目的の実現を主眼に置き、自分の理性に依拠した行動や実践を自発的に為して、与えられた生を全うするという事。 結果、自分という固有の存在や、その人生に価値が有ったか無かったかは、自分が後ろを振り返った時に気付き、その価値や意味を見出す。
という事だと私は考えています。



幾分か思想的な話をしましたが、但し、私はここで哲学思想やスピリチュアルな話をしようとは思っていません。 嘗て苦労した私的体験の話に終始しようとも思っていません。私がここで述べようとする事は「成長」の話です。

成長といっても国家の成長と、事業者(企業)の成長と、個人の成長とは別のものです。 但し、別であるとは言っても、国家の成長に於いても、事業者(企業)の成長に於いても、個人の成長に於いても、共通する本質的な考え方は同じです。この結論から言えば、「適者生存」という事です。

この「適者生存」が成り立つ条件としては、ある個体(生物・個人・事業者・国家)が、置かれた環境に則して変化できるか否か?という事です。
言い換えれば、環境に適した状態や形態や構造へと、ある個体(生物・個人・事業者・国家)が変われるか変われないか?という意志や行動の問題が、その個体がその環境で生き残れるか?或いは死ぬか?という事を決定する。という事です。

この「適者生存」は元を辿ればダーウィンの進化論に由来する言葉です。その意味で成長戦略研究所が掲げる「成長」という考え方の根底にある思想は、ダーウィンの進化論に依拠していると言って差し支えありません。

但し、このダーウィンの進化論に普遍的妥当性があり、太古地球の原始生命から人類までの歩みを説明できる万能な理論である。とは更々考えていません。しかし、ダーウィンの進化論に妥当性が無い。とも考えていません。

さて、先ず国内経済の話をしますが、小規模事業者や中小企業が日本の企業全体に占める割合は99.7%で、その数は、全国で400万社弱の企業が存在しています。こうした日本の産業構造がある中で、 下記の様な環境や産業に於ける事業者の類型に於いては、現代にあっても資本の原始的蓄積が困難である為、自社内部に十分な資産が構築されず、事業の資金繰りに常に四苦八苦する状況を招いています。

全国に400万社弱ある中小企業の内、その8割は赤字といわれており毎年約1万社が倒産しています。倒産の要因としては「販売不振」が65%となっており、上手く売上げを創出できていない企業が多い様です。

・過当競争産業
・伝統産業や衰退産業
・黒字化するまでに長期間を要する事業
・競争優位性を確立するために数多の研究開発を要する事業
・レバレッジの掛かりづらい職種職務への従事者(フリーランサー・個人プレイヤー)
・レバレッジの掛かりづらい産業構造にある事業(労働集約型産業・時間集約型産業)
・社会的信用が少なく身内や金融機関からの資金調達が困難な事業者(若年起業・脱サラ起業・再チャンレンジ起業)

一般的に、事業者にとっては経常的な売上高、或いは、会計上の資産とみなされるものを所有していなければ、民間銀行は十分な担保が取れない為、基本的にその事業者へ融資は為されません。 個人事業者や小規模事業者といったスモールな水準の事業体に対して、民間銀行はその事業者のビジネスモデルについての将来性や成長性を個々に精査し評価している訳ではありません。

何故ならば、民間銀行は事業者のビジネスモデルに於ける将来性や成長性を、個々に精査し評価する事ができないからです。 だから民間銀行がスモールな事業者への融資可否に於いて目を光らせている事は、「貸し出される資金相当額を超える担保の供与有無」極論すれば、これだけです。

勿論、こうした個人事業者や小規模事業者の為に、日本政策金融公庫による融資、経済産業省・中小企業庁・各都道府県による補助金や助成金といった制度が存在しています。 しかしながら、政府系金融機関や行政から資金調達をする場合、必ず「受給対象となる要件」を充足する必要がある為、速やかに資金調達がおいそれと実現する訳ではありません。

しかも、政権や政局が変わる度にキャンペーンが移り変わって行く国と地方自治体による補助金や助成金の全体像を、包括的に把握している個人事業者や小規模事業者やスタートアップが、どれほど多くいるでしょうか? そして「受給対象となる要件」を充足するには、煩雑な手続きと長い待機期間というハードルをクリアする必要があります。事業者の業種業態や営業年数によっては、「受給対象となる要件」を満たせないケースも多く存在します。

ならばクラウドファンディングを活用するといった案も思い浮かびますが、クラウドファンディング(Crowdfunding)運営事業者のサイトを概観しても、数万円といった規模のごく微額しか集まらない事業者で溢れかえっています。

世の中の端々にお金が有り余っていない以上、クラウドファンディングを使っても雀の涙ほどの資金しか調達できないという状況は致し方ない事でしょう。 「企画・技術・プロダクト・サービス・コンテンツに、需要が無いからだ。魅力が無いからだ。競争力が無いからだ。エッジが無いからだ。」と言って仕舞えば、それまでです。

しかし、当初そんな需要が無い魅力が無いという企画・技術・プロダクト・サービス・コンテンツで一見あったとしても、 そこから事業者がブレインストーミング(Brain Storming)・ハッカソン(Hackathon)・アイデアソン(Ideathon)といったブラッシュアップを、何年も真剣且つ地道に重ねた場合、 その最終的なクオリティーに対する世界的な需要の総量は、当初の何百何千倍になるのでしょうか?

成長戦略研究所が社会的課題として実現したいと考えている事は、まさにこの部分です。全く以ってリソースに恵まれない個人事業者や小規模事業者やスタートアップが、 当初に思いついた企画・技術・プロダクト・サービス・コンテンツが、恰も採掘したままの粗鉱や、極小でいびつな種子といった状態にありながら、 それでもコツコツと努力して、未だ日の目を見ていない小さな事業を、将来の為に維持存続させるべき期間に於いて、

そうした数多の多種多彩で小さな事業を維持存続させられるだけの資金調達を経営の独立性を保持したまま実現できれば、それら数多の多種多彩な事業者が草の根レベルから続々と芽を出し、 いつか日本の将来を夢と希望に満ちた明るいものもしてくれる。という考え方です。分かり易い言葉で端的に言えば、 小規模事業者の「底上げ」をする事によって、暗いと思われている日本の将来を明るい将来へ変えよう!という考え方になるでしょうか。

資金調達と言えばベンチャーキャピタル(Venture Capital)が思い浮かびますが、通常ベンチャーキャピタルはイグジットを目的として、スタートアップ関連の事業者へ出資している為、コアコンピタンスに乏しい事業者、成長産業への参入ではない事業者、 IPOやM&Aによる高値のイグジットが実現できそうもない事業者、何処にでもありふれている凡庸なサービスや陳腐なプロダクトを提供している事業者等に対して、まとまった資金が注入される事は、通常あり得ません。

というか先ず以って、そんな奇特な慈善活動がベンチャーキャピタルによって為される事はあり得ません。彼らのイメージアップ戦略による私たちの勘違いもいい所です。 ベンチャーキャピタル各社のイメージが向上すればする程、多くのスタートアップ企業から出資検討依頼の申し込み数が増えますよね?そうなれば、より多数から極一部の上澄みだけを選別できる様になるという訳です。この事を私は身を以て理解しています。

先述した様な、当初一見すれば、需要が無い魅力が無いと思われる様な企画・技術・プロダクト・サービス・コンテンツについても、 それが将来的な競争優位性のコア(排他的障壁・唯一性・独占性)になり得る。それが巨大市場の一角を獲得できる。と確実に判断されるまでは、まとまった資金が注入される事は、通常あり得ません。

この様に、ベンチャーキャピタルによる資本注入は、事業者の将来性や競争優位性に対する精査や審査が厳しく、資本注入が為される事業者数も、ベンチャーキャピタル一社あたり年間に数社と限られている訳ですから、 世の中に存在する小規模事業者の端々までお金が行き渡る事はあり得ません。融資や資本注入が為されるお金の性格は、拠出元団体がパブリックになるほど緩く、拠出元団体がプライベートになるほど厳しくなるからです。

そして民間銀行や政府系金融機関といったパブリックな資金拠出元団体は、初期投資が後になって何倍何十倍にも膨れ上がる様な、 キャピタルゲインというビッグリターンを目的として融資している訳では、全くと言って良いほど無いが為に、 小規模事業者の財務諸表や担保資産の規模に対して、妥当性を欠く過大な資金を融資したりや資本注入したりといった事は、通常あり得ません。

いくら事業者に将来性があったとしても、法定金利の様な極薄いインカムゲインを基準とすると、万が一の焦げ付きリスクを考えれば、貸し出すインセンティブが余りにも小さいからです。 そうなりますと、将来的な競争優位性のコアになり得る企画・技術・プロダクト・サービス・コンテンツを現状に於いて持っていない個人事業者や小規模事業者が、まとまった金額の資金調達を実現する方途は、現状日本に於いては実質的に閉ざされています。

政府金融庁は民間銀行に対し、民主主義や金融庁のセクショナリズム的な圧力から、そうした個人事業者や小規模事業者にもっと融資をするよう求めていますが、民間銀行としては十分な担保を取れない事業者にいったん融資をして仕舞えば、 焦げ付き・貸し倒れとなるリスクが高まり、民間銀行の財務諸表や自己資本比率が毀損される事になる為、どう足掻いても民間銀行は、担保の無い事業者へは事業資金を融資してくれません。

民間銀行からの直接的な資金調達が難しいならば、次に信用保証協会が考えられますが、そもそも信用保証協会という、広告CMさえ全くと言っていいほど流れていない公的団体の存在を、認識しているスタートアップや個人事業者がどれだけ多く居るのでしょうか?

また信用保証協会による保証を利用するにせよ、対象事業者は限定されており、規模(資本金・従業員数)、業種、区域・業歴、といった要件をクリアしなければなりません。 無論の事、これら要件への充足が不十分であれば、少ない金額しか調達できません。

そして尚且つ、信用保証協会の提供する保証は民間銀行に対してのものなので、保証があっても民間銀行から資金調達をするには、 「事業計画書や過去数年分の財務諸表の提出」や「代表者個人の連帯保証」といった、煩雑な手続きが必要となります。

当たり前の事かもしれませんが、個人事業者や小規模事業者が資金調達を実現するには、多くの高いハードルが存在するという事です。そして、現状そのハードルを越えられない事業者は、経済的社会的にジャンジャン振るい落とされている。という事です。

だからこそ、「世の中は厳しい。」「世の中は世知辛い。」といった言葉が生まれる訳です。「本当にお金が必要なところへはお金が回らない。」という社会的な必要性とは掛け離れた状況を、多くの方々が耳にされた事があるのではないでしょうか?



資本の原始的蓄積が困難な業種・業態に於ける事業者、資本の原始的蓄積が困難な職種の従事者、というものは営業活動による利幅や利潤が薄い為、 自己資本はゆっくりとゆっくりとしか蓄積されないが為に、何時までも創業者が家内制手工業的プレイヤーであり続けるといった状況となり、創業者は原初的な事業形態から抜け出す事が困難となります。

かく言うこの私も、当にその家内制手工業的プレイヤーのまま、過去十年間あり続けた創業者の一人です。その他、インターネットとスマホが普及した時代のトレンドとしては、 初期費用や先行投資の掛からないブログやメルマガやユーチューブやアフィリエイトや情報販売やセミナーや私塾といった 「一人起業」「ネットビジネス」「ネットワークビジネス」といった、スモールビジネス的な事業形態のままに創業者は留まらざるを得ません。

そしてインターネットとスマホを活用する事によって、創業者たった一人だけで事業を回す事ができ、創業者たった一人がメシを食う事を志向し、創業者たった一人が極端に潤う。 といった類のパーソナルビジネスになればなる程、雇用や取引先が必要無くなる為、ビジネスの創業者は個人的な私利私欲の完結、つまりは利己主義に走り易くなります。 即ち、自己満足や現世享楽や自己顕示に留まろうとする創業者の在り方です。

そうなると、日本から世界市場を狙うビッグベンチャーが生まれて来る土壌、言い換えれば、将来の日本経済を牽引してくれる様な大きな新大陸フロンティアを創り出し、 世界に先駆けて未踏の土地を領有しようとする様なビッグビジネス・ビッグベンチャーは育ち難くなくなります。
となると即ち、企業の発展に付随して発生する大きなB2B周辺需要が生まれ難くなる訳です。

ここで私は「創業者が家内制手工業的プレイヤーであり続けるスモールビジネス的な事業形態」を批判している訳ではありません。何故ならば、私もそのスモールなる一人なのですから。 「21世紀は組織の時代から個人の時代へ」と言われている様に、インターネットやスマホによって個人にチカラや自由や権利がもたらされたという事は、紛れもなく余りにも素晴らしい事であると思っています。

というのもインターネットが登場する前までの人類の歴史に於いては、 国家、君主、王様、諸侯、貴族、領主、官僚、役人、軍族、憲兵、教会、寺社、聖職、僧侶、学界、学校、師範、マスコミ、財閥、企業、名主、代官、村長、イエ、 といったものが、個人のチカラや自由や権利や独立性を、封じ込め押さえ込んで居た訳ですから。

現代の如く各々の個人が、これほどまでに経済や言論に於けるチカラや、そのチカラを基盤とした自由や権利を享受している恵まれた状況というのは、人類の歴史に於いて未だ嘗て存在しませんでした。
その意味では、上述した諸処のパーソナルビジネスやスモールビジネスを起点として、様々なB2B周辺需要が生まれています。

ここで私が言うチカラや自由や権利とは、発するチカラ、繋がるチカラ、集まるチカラ、経済のチカラ、 より自由になった営業の自由、より自由になった言論の自由、より自由になった知る権利、といったものです。

しかし、私が常々感じる事は、パーソナルビジネスやスモールビジネスから世界規模のビッグビジネス・ビッグベンチャーへと飛躍するケースは、上述した様な事情で、なかなか日本では生まれて来ない。という点です。

創業者の始めた現代の家内制手工業的ビジネスを、世界的な市場を狙える様なビッグビジネス・ビッグベンチャーへと育て、そこから多くの雇用や大きなB2B周辺需要を生み出し、 そうした企業を次々と日本社会の公器として発展させようとする事が、現状では資本蓄積(お金)の問題がボトルネックとなって難しい土壌がある。

という旧態依然で鬱屈とした状況が、日本の津々浦々にあちこちで当然の如く起こっているとしたら、この状況は日本全体にとって望ましい構造と言えるか?
という点について批判している訳です。

Appleにせよ、Googleにせよ、Amazonにせよ、Facebookにせよ、創業者個人とその友人が、彼らの自宅やガレージから創業した企業です。 彼らはパーソナルビジネスやスモールビジネスを志向しなかったからこそ、創業者が個人的な私利私欲の完結つまりは、利己主義に走らなかったからこそ、 それら企業の馬鹿デカいポテンシャルや将来性やマインドに対し、巨大な資本的支援が公私から集まり、世界的なビッグベンチャーへと飛躍できたのだと思います。

だとすれば、もし仮に、日本に於ける個人事業者や小規模事業者やスタートアップ創業者の多くが、パーソナルビジネスやスモールビジネスの事業形態に留まる事なく、 大きな新大陸フロンティアを創り出そうと志し、GoogleやAmazonやFacebookの様に、世界に先駆けて未踏の土地を領有しようとする様なビッグビジネスを狙い、

その為のボトルネックとなっている資本蓄積や資本調達といった「お金の問題」を、悉く小さな事業者が解消する事ができたとしたら? そうした状況は日本全体の経済社会にとって、どれほど素晴らしい事でしょう?どれほど日本の将来を面白くて楽しい夢と希望に満ち溢れたものにする事でしょう?


さて民間銀行からの資金調達に於いて、貸し出される資金相当額を超える担保の供与有無が、民間銀行による融資の可否である。と先に指摘した通り、 この民間銀行の対事業者ロジックが続く限り、民間銀行が資金を貸し出すのは、全方位的にリソースの有り余っている大企業ばかりとなって仕舞い、

本当にお金が必要な個人事業者や小規模事業者といったスモールなビジネスオーナーに対しては、まとまった資金が貸し出される事はあり得ません。 しかしながら、よくよく考えてみれば、社会通念や先入観を取っ払って考えた場合、これってそもそもおかしい事だと思いませんか?

そもそも政府公共団体の経済部門や民間銀行は何の為に存在するのでしょう?それらの存在意義を究極的に言えば、 国内経済を活性化させ繁栄させる事です。国内経済を活性化させるとは、大企業の国際競争力を高める事は言うまでもありませんが、

それと同時に、 草の根レベルから湧き出て来る諸処多様なスモールビジネスに対し、土を耕し、種を撒き、水をやり、日光を浴びせ、 肥料をやり、すくすと育て、成った果実を通して、消費者がサービスやプロダクトの購入と、それによる便益や効用の充足という形で恩恵を得る。

社員が被雇用という形で恩恵を得る。周辺産業がB2B需要で恩恵を得る。国家が租税という形で恩恵を得る。
といった事。 つまり、スモールビジネスの多くをビッグビジネスへと育てて行く事だと、私は考えています。その結果として、国内経済は活性化され、日本の国際競争力は高まり、ひいては国が繁栄する。という望ましい結果に繋がる。と思います。

そもそも現在の日本経済の上層に君臨している財閥系企業にせよ、上場企業にせよ、民間銀行にせよ、その発端は家業の始祖となる鎌倉・室町・江戸の商人だった人物が始めたか、明治以降に国家が国策国営で始めたものが民営化されたか、 或いは、江戸期~昭和期に優れた個人や家族が始めたか、という類型のいずれかです。つまり殆どの場合、元々の源流はスモールビジネスから始まっていた。或いは、公の資本から始まった。という訳です。

それが現代になるまで巨大化できた理由は、当時に大流行した商売に乗れたか、ボロ儲けでき蓄財に励める様な高い利潤を生み出せる商材と、その販路を見つけられていたか、 政商の如く当時の政権政府とがっぷり四つで、官公需のビッグプロジェクトを経常的に受注していたか、公私いずれか又はいずれもから諸処のリソース支援を受けて育ったか、 といった、それらの企業が大きく成長していた当時の時勢に便乗する事ができたから。当時の経済構造や外部環境を大いに存分に利用できていたから。という事です。

そうであるならば、既に巨大化している企業群は、現代でも引き続き君臨している経済界の上層という地位に胡座をかいて、なりふり構わず有名人や芸能人やインフルエンサー等を活用し、 ひたすら見込み顧客の囲い込みや自社利益の追求といった、既存傘下構造の保守保全に専心し続けていても良いものでしょうか?

というよりも寧ろ、現代の大企業には、 これから続々と立ち上がろうとする原始資本に乏しいスモールビジネスの多くを、将来の日本を担うビッグビジネスへと育てて行く使命や、社会的役割があるのではないでしょうか?


大きな資産や資本といった余裕や余剰を持つ経済団体は、社会の公器として積極的に、草の根レベルから湧き出て来る諸処多様なスモールビジネスを育てて行くべきである。と私は考えます。 その社会的貢献性によって、より大きな社会的評価や社会的名誉を得れば良いのだと思います。そして、そうしたスモールビジネスに対する積極的な貢献が、畢竟は自社の経済的評価を高める事に繋がる。と私は思います。

過去の時代に於ける経済構造や外部環境や合従連衡の繰り返しによって、巨大な規模と成るまでに育てて貰えた現代の大企業が、相も変わらず今の時代にも、 ひたすら自社利益の追求といった既存傘下構造の保守保全に専心しているからこそ、将来の日本経済社会が衰退して仕舞う元凶となっているのである。と私は考えています。

「自分さえ良ければ、」「自社さえ良ければ、」「自社グループさえ良ければ、」「マイファミリーさえ良ければ、」「たとえ自社グループ内にカネ(内部留保)は余り余っていても、 これから錦の旗を立てようとする下々の無名スタートアップなんぞに、ウチの身銭はビタ一文やらんわ!」

といった、ケチの極みを志向するシンクスモール(think small)な態度こそ、 日本国内に「デフレスパイラル」や「将来市場のパイ縮小」「豪華客船の泥舟化」を招く、卑小な思考だと言えます。

このシンクスモール(think small)は、最大多数の最大幸福を妨げようとする思考として、私たちの社会から忌み嫌われ、尚且つ蔑視される事(fucking)凸(゚Д゚)が相応しい。と私は考えます。 何故ならば、シンクスモール(think small)はエゴイズムの骨頂だからです。

この様なケチの極みを志向する類の大企業が採っているシンクスモールな態度や方針や姿勢を、 日本人の大半が批判し批正して行かなければ、10年先といった近い将来に於ける日本経済社会全体の著しい衰退は、火を見るよりも明らかだからです。


「人間の器量や市場パイの拡大を志向しようとする、シンクビッグ(think big)」なのか?「人間の器量や市場パイの縮小を志向しようとする、シンクスモール(think small)」なのか?

という点では、少なくとも未踏未開の領域へ、恐る恐るであっても足を踏み入れようとする勇気を称えるアメリカ人らしい考え方の方が、日本人のそれよりも遥か上を行っている様に思えます。 社会には、個人や事業者が自発的にリスクを取って挑戦する事への賞賛と、プレイヤー相互の牽制が必要なのです。

社会の中である一極一箇所が勝ち過ぎると、全体が崩壊してしまう可能性が高まるからです。近代国家を成す三権分立とそれを外部監視する第四第五第六の権力にせよ、牽制という点では全く同じ構図ですよね?

従って、大企業が大企業であり続け、特権階級が特権階級であり続けようとするならば、ハーバード大のマイケル・ポーター教授がCSVやCSRを提唱した様に、 既存傘下構造を発展的に維持存続させる為に、社会への率先的貢献や率先的奉仕が不可欠なのです。

「本当にお金が必要なところへはお金が回らない。」という日本の現状がある中、そこで成長戦略研究所では、上記を踏まえ、 個人事業者・小規模事業者・中小企業・スタートアップ・スモールビジネス・NPO非営利団体、様々な公益法人、 といった事業者様方をファイナンス面から応援し、大きな力を与えられる様な「公益的営利事業」をこれから作ろうと思います。 「公益的営利事業」というのは、私利と公益とを両立させよう!という考え方です。

この考え方の根拠は、「経常的な営利を目的とする事業でなければ、公益事業を拡大し維持し存続させる事は難しい。」と私は考えるからです。 私利と公益の調和を目指した偉人が渋沢栄一です。渋沢栄一の考え方は甚だ正しく敬服すべき考え方であると私は考えます。

数多の事業者が長期的に公益的な活動を維持継続する事を目的とするならば、彼ら事業者が適切な私利営利を満たし続ける必要がある。と私は考えます。 成長戦略研究所が創出しようとする「公益的営利事業」の具体的な内容については、本文の最後に記述しようと思います。



さて欧米には、ノブレス・オブリージュ(仏: noblesse oblige)という精神が根付いていて、一般的には、「財産、権力、社会的地位の保持には責任が伴う。」という事を指します。

身分の高い者や持てる者は、それに応じて果たさねばならない社会的責任と社会的義務がある。という考え方です。別の言い方をすれば、 「社会的に上位に位置する人が義務として、弱者に対して施しをする精神」という事になろうかと思います。

wikipediaには、”ノブレス・オブリージュの核心は、貴族に自発的な無私の行動を促す明文化されない不文律の社会心理である。 それは基本的には、心理的な自負・自尊であるが、それを外形的な義務として受け止めると、社会的(そしておそらく法的な)圧力であるとも見なされる。 法的な義務ではないため、これを為さなかった事による法律上の処罰はないが、社会的批判・指弾を受けたり、倫理や人格を問われることもある。”と記載されています。

このノブレス・オブリージュ精神に基いて、欧米ではファミリービジネス創業家や一代で成功した起業家といった社会的に身分の高い者や持てる者が、財団を立ち上げて莫大な金額の寄附をする文化(寄付文化)が根付いています。 だからこそ米国では、ファミリービジネスの創業家が築いた財団やプライベートエクイティが数多く存在し、

プライベートな個人のエンジェル(Angel)・ベンチャーキャピタリスト(Venture Capitalist)・ シードアクセラレーター(Seed Accelerator)・コーポレートベンチャーキャピタル(Corporate Venture Capital)といった、 スタートアップ・小規模事業者・中小企業の資金調達を、支援しようとする団体が膨大な数で存在しています。

彼らは次々と新規事業を開始しようとする事業者に対し、十分な原始資本を注入投下し、次々と事業が育ち花が開き大きな果実が実る。という非常にポジティブなサイクルが成り立っています。
急速に世界を席巻したgoogle・amazon・twitter・facebookといった企業を見れば一目瞭然でしょう。

一方、日本ではノブレス・オブリージュという考え方に基づく寄付文化が無い為、尚且つ日本では寄付税制が、 欧米ほどポジティブに整備されていない為、上記の様なポジティブなサイクルが成り立つ社会的土壌が乏しいと言えます。

因みに、政府(内閣府税制調査会)の資料によれば、2002年に於ける個人による寄付総額は、米国では22兆9千億円にも上るのに対し、日本では2189億円と、実に100倍以上の大きな開きがあります。 IMFの統計によれば、2016年に於ける国内総生産(GDP)は、米国が18兆5691億ドルであるのに対し、日本が4兆9386億ドルであり、米国は日本のざっと3.76倍の経済規模であるという事からすれば、

日本よりも3.76倍大きな経済規模を持つ米国が、日本よりも100倍以上の大きな個人による寄付総額があるという実態は、如何に日本が寄付文化に乏しい国であるか?という事がお判りかと思います。

しかも、この日米の個人による寄付総額に於いて100倍の差があるという現象は、ある一年という単年度の話です。 即ち、米国では毎年22兆円前後、日本では毎年2000億円前後が積み上がって行くので、これまで累積して来た寄付金の絶対的な数値残高の差には、日米の間には天と地の差があるでしょう。

それは即ち、日本ではノブレス・オブリージュという考え方が根付いていない事が原因でもあります。しかしこの事が原因で、「日本国内経済の活性化策は常に乏しい。」 「本当にお金が必要なところへはお金が回らない。」「将来の世界経済をリードする様なビッグベンチャーは、常に欧米から排出される。」

「未踏フロンティア市場を創造し、それを開拓し独占的に領するのは、常に欧米や中国やロシアやインドやイスラエルといった国々の企業である。」 「日本は常に世界経済の後塵を拝する。」この結果、日本という国の国際経済力は相対的に低下し続け、 日本国内に於いて格差が拡大し貧困が増加し続ける。という構造ができ上がりつつあります。これって何とも悲しくないですか?


世界経済をリードする様なベンチャー企業を排出している地域は、顕著に有名なのが米国シリコンバレー(silicon valley)ですが、 実際は中国・香港・台湾・シンガポールといったアジア各国、イスラエル、ドイツ、イギリス、フランス、北欧、ベネルクス、ロシア、インド、東欧、アラブ諸国、と、

ほぼ全世界的に政府と民間とが渾然一体となって、 新規事業の立ち上げ育成を強力に支援しようとする、新規事業開発及び新産業開発の世界的潮流が醸成されつつあります。
しかもこの新規事業開発及び新産業開発の世界的潮流は、年々その国際的な競争が激化している事は言うまでもありません。

どの国も将来性あるベンチャー企業の数々を世界各国から誘致し、税制を優遇し規制を緩和し、世界各国から招き入れようとする企業群がビジネスをし易い環境を整えた上で、その国に事業拠点を提供しています。

先述した通り、最終的には、その国の消費者がサービスやプロダクトの購入とそれによる便益や効用の充足という形で恩恵を得る。 その国の社員が被雇用という形で恩恵を得る。その国の国家が租税という形で恩恵を得る。そして畢竟、その国の経済を活性化し、その国の国際競争力を高め、その国が繁栄する。という事を狙っています。



今でこそ日本は、G7・G8・G20といったサミットに参加している先進国とみなされていますが、政府や行政に携わっている方々は勿論の事、日本人である私たち人一人一人が、将来に強い危機感を持って仕事をして行かなければ、 あっという間に、日本は国際的な経済競争に破れ、国際的なプレゼンスに乏しい魅力の無い非先進国国に成り下がって仕舞うだろうと考えます。

ただでさえ日本は少子高齢社会を迎え、社会保障の給付金を受給する高齢者や生活保護者が圧倒的に増加し、 その一方で、勤労者世帯の平均所得は1995年を境に右肩上がりは終わり、右肩下がりが続いており、 昭和の高度成長時代に興隆した中間層世帯が衰退した結果、その子供である学童や若年の貧困が、急激に増加している。という現状があります。

しかも、今の日本に於ける若年や青年が持っているメンタリティーは、嘗ての昭和のそれに比べ遥かに草食化して仕舞っています。 ガツガツとした肉食を止め、意識的且つ無意識的に草食化した理由は彼らの自己防衛でしょう。 ここで言う自己防衛とは、現代日本の経済社会という外的環境に即した、価値観のオプティマイズに他なりません。

即ち「求めれば苦しい。ならば初めから求めない。」という態度で、端的に言えば、観念的な出家でしょう。 こうした今の日本の若年や青年が持っているメンタリティーに基づく観念的出家・無為無欲といった態度は「サイレントテロ」と呼ばれています。

その特徴を言い表せば、「消費しない」「働かない」「結婚しない」「子供を生まない」「親の面倒を看ない」「政治参加しない」「地域社会(町内会等)に顔を出さない」といったものです。
下記がサイレントテロの発露として「若者の●●離れ」が様々な分野に於いて発生している状況を、ざっと一覧にしてみました。

この「若者の●●離れ」はイコール、著しい若年層及び青年層の貧困化・矮小化・蒙昧化を示すものである。 という事を、強く頭に置いておく必要があります。何故ならば、「若者の●●離れ」やサイレントテロが進んだ場合、お金を使う事によって得られるべき「体験の数々」が得られなくなり、すると、何よりも大切な「経験値」が積めなくなるからです。

外食離れ・コメ離れ・日本食離れ・炭水化物離れ・果実離れ・魚離れ・牛乳離れ・酒離れ・運動離れ・スキー離れ・相撲離れ・野球離れ・スポーツ離れ・ゴルフ離れ・就職離れ・会話離れ 運転免許離れ・百貨店離れ・常備薬離れ・スーパー離れ・町内会離れ・献血離れ・保険離れ・

海離れ・クリスマス離れ・外出離れ・趣味離れ・嗜好品離れ・自動車離れ・旅行離れ・映画離れ・ゲーセン離れ・腕時計離れ・バイク離れ・煙草離れ・音楽離れ・釣り離れ・パソコン離れ・時代劇離れ・ギャンブル離れ・麻雀離れ 宝くじ離れ・結婚離れ・風俗離れ・

恋愛離れ・ドライブ離れ・思考離れ 選挙離れ・宗教離れ・暴走族離れ・学生運動離れ・募金離れ・年賀状離れ・本離れ・テレビ離れ・新聞離れ・雑誌離れ ラジオ離れ・ホテル離れ・政治離れ・農業離れ・理科(理系)離れ・ものづくり離れ・飲み会離れ・活字離れ

こうした「若者の●●離れ」を象徴とする若者の著しい貧困化・矮小化・蒙昧化。 そして、もともと寄付文化に乏しい日本が、新規事業開発・新産業開発という世界的潮流へ乗り遅れた事による国際競争力低下、そして最終的な末路である経済凋落。 もはや近い将来に訪れる日本のディストピアに、私は茫然自失しそうになります。

「え、別にディストピアでも良いんじゃないの?」「確かマンガかアニメか何かのテーマで、そういう世界観があったよね?」 等と、あっけらかんとした無邪気な顔で、気軽にそう思われるかもしれませんが、そうした御花畑状態にある方は、今までドン底や地獄を味わって来ていない、恵まれた人生を運良く生きて来れた方です。

それならば、次の様に表現すれば判り易いでしょうか?「ユートピア=天国」「ディストピア=地獄」であると。 だからもし、日本の国際競争力が著しく凋落し、拝金主義の亡者と反知性主義の亡者が溢れ、 温存された一部特権階級、それに尻尾を振る牧羊犬、そして残り大多数の食えない個人や法人が溢れ、ほとほと社会が荒廃したディストピアを迎えれば、 諸外国からどれだけ日本(国内産業)にとって、不利な国際条約や貿易協定を、高圧的な態度で要求されると思いますか?

どれだけ日本が国際的にナメられた扱いを諸外国からされると思いますか?どれだけ日本が国連や国際団体に於いてのプレゼンスを失う事になると思いますか? どれだけ日本の未来を生きる子供や孫の世代や、それ以降の末世代が、明るい夢や大きな希望が持て無くなった社会を、貧困や格差や生活不安を抱え、 何事に於いても余裕が無く、イライラでピリピリでムカムカした状況に苦しみながら、生きて行かなければならなくなると思いますか?


私が序盤で説明した様なサバイバルの話を踏まえれば、国際条約や貿易協定といった二次的な原理を尊重しない諸外国やそこに住む人々、二次的な原理を悪用する諸外国やそこに住む人々、義務を履行せず権利だけを叫ぶ諸外国やそこに住む人々、 等が、二次的な原理を必ずなし崩し的にして来ます。

だからもし、経済産業競争力に於ける国際的なプレゼンスや国際的な威光を日本が失った場合、それによって日本全体とそこに住む私たち一人一人の日本人が受ける副次的なダメージは、計り知れないものがあります。

合理的に考えて、経済的なパイが萎めば萎むほど、どんどん小さくなって行くパイを、そこに棲んでいる皆が、寄って集って奪い合おうとするので、私の経験則からしても、 分かち合えるパイの規模が小さくなる程、貧すれば鈍すと諺にある通り、

さながら芥川の「蜘蛛の糸」に登場する主人公カンダタの如く、「ワシ一人だけ助かりゃええんじゃ。お前らみんな死んで行けや。」と言って、 私たち市民同士が相互に蹴落とし合う様な、阿鼻叫喚の地獄絵図と形容できて仕舞う様な、社会構造へと向かう事は必至です。

そうなると畢竟、喩えると「一杯のかけそば」の様な物語(境遇)が、将来日本のボトム以下の世界で頻繁に起こる事になるかもしれません。 「乏しき時に与えるは富みて与えるにまさる」という言葉を、数年前に身を以て味わっていた私としては、 「乏しき時に与える」という状況になると、必ず与える側の者に苦悩が発生し、その与えるという行為の辛さや、重みを胸に焼き付ける事になります。

ならば、初めから経済が乏しくならないよう、この列島には1億2千万人もの人間が住んでいるのですから、 みんなが思案して奮起して、その予防策となるいくつもの布石を、前もって打っておかなければならない。ですよね? 戦後十分な高等教育を受け、有り余る程の自己啓発書やビジネス書や教養書を、何時でも手に入れられる状態に置かれた私たち日本人は、馬鹿では無いのですから!
と私は考えます。

上述した様な、日本の若年や青年に於ける痩せ細り・草食化・現実逃避の実態を象徴とする経済状況は、広い意味でデフレスパイラルの継続と断じて差し支えない状況かと思います。 つまり、いくらアベノミクス効果がマクロ的にあったと言われるせよ、現代日本に於いては、根源的に萎み行くネガティブなサイクルが成り立っている。という訳です。

「日本の未来は明るいぞ!」と言って楽観したり、日本の文化や社会を自画自賛してホルホルしたりする事をやめて、私たちは厳しい現実を見なければなりません。 上記の様な、将来日本楽観論(御国は凄いぞ・ワシらは強いぞ・明日は明るいぞ・大丈夫だ余裕だ)というものの本質を言うなれば、市民に対する愛国化・市民に対する労働激励、に近いものです。

はたまたマスメディアや一部サイト等によって流されている、ホルホルコンテンツというものの本質を言うなれば、 愛国化・共同体意識強化・御満悦化・自尊心強化・優越意識強化・御花畑化・自慰的慰労・危機意識無化・視覚遮蔽化、といった所です。

そして尚且つ、ホルホルコンテンツの最重要の機能性としては、「明日の学年末テスト、ぜんぜん余裕だから、オレ勉強する気なんか更々ねーし。 お前も頭良いんだから楽勝だろ?じゃあ今からゲーセンへ遊びに行こうぜー?お前の闘ゲー攻略テクは、惚れ惚れするものがあるからな。またお手並み拝見させてくれよな。(ダロ?ダロ?)」 と周囲に吹聴し、周囲が持っている学年末テストに対する現実認識を甘いものにする。

即ち、客観に対する認識を侮らせる類のものである。 謂わば気持ちよく気持ちよく一般市民をラリらせて、ゆくゆくは死に体のドランカーにするだけの「度数の高いアルコール」の様なものです。そして、「学年末テスト=将来日本」
という事です。

もしかすると、少なからずいくらかの知識人は、とうの昔から諦念を抱いているのかもしれません。沢山の知識と知恵の付いた中高年層は、間違いなく逃げ切りを考えているでしょう。 厳しい現実を見る事のできない態度や、現実を歪曲しようとする態度は、よく知られた言葉で言えば、

裸の王様・茹でガエル・画餅充飢、酸っぱい葡萄・逃がした魚は大きい、といった言葉があります。 どれも自分にとって御都合的な観念のバイアスを形成する事によって、現実を客観的に見ようとしない態度です。即ち、不都合な真実(現状)から目を背けようとする精神的な態度です。


また、将来日本の暗い現実を客観的に見る事のできる知識がある人の多くは、自分だけ助かれば、自分と自分の家族だけが良ければ、 といった利己主義の追求や、不動の地位を確立している自社と自社社員さえ生き残る事ができれば、といった既存構造の経済保守主義に走っている様に見えます。

しかし、本当に今のままで良いのでしょうか?日本人である私たち一人一人が、将来に強い危機感を持たなくても良いのでしょうか? 日本の天下国家を論ずる問題・マクロな経済社会問題は、政治家やお役所や評論家や学者に任せておけば良いのでしょうか?

生々しい真実(現状)をまざまさと直視した上で、歯に衣を着せぬ言葉で語ろうとする、偏向していない一部の志ある者はまだしも、それ以外の政治家や役所役人や評論家や学者や先生といった指導者(leader)について、 その人その人が果たして、、

「自己を守ろう守ろうとする頭の良い人間(小利口)」なのか、「自己の生き死にさえ理想の実現に賭けようとする勇気ある人間(勇者)」なのかを、 私たちはよくよく精査して、その言論と行動から導かれる人物の思想信条や、(気質・志向性・性分といった意味での)人種を判別しなければならないのです。


さて、何故ノブレス・オブリージュという精神が、欧米には根付いているか?という事を考えた場合、その原初は古代ローマから貴族制度や階級社会が、欧州に長く続いた事にある。と考えられます。

wikipediaによれば、”倫理的な議論では、特権は、それを持たない人々への義務によって釣り合いが保たれるべきだという「モラル・エコノミー」を要約する際に、しばしば用いられる。 最近では、主に富裕層、有名人、権力者、高学歴者が「社会の模範となるように振る舞うべきだ」という社会的責任に関して用いられる。”

という様に記載されている事から、常識的に考えられる事として、身分の高い者や持てる者による利己主義の追求一辺倒は、 イコール何処までもエゴの追求を為そうとする社会的強者を意味する為、その結果、持たざる者との釣り合いが取れなくなる事から、 最終的には、既存ファミリービジネス存続懸念(ex.strike・sabotage・walkout・lockout)・社会不安(demonstration・protest・resistance)・社会体制崩壊(revolution)、を招く事に繋がるのであろう。と私は考えます。

だからこそ、「社会の模範となるように振る舞うべきだ。」という自発的な無私の行動を促す明文化されない不文律の社会心理が醸成されるのであり、 「これを為さなかった事による法律上の処罰はないが、社会的批判・指弾を受けたり、倫理や人格を問われることもある。」という事になる訳です。

一言で言えば、ノブレス・オブリージュという精神は、穏やかな経済保守主義であって、その発露である寄付文化は、社会の既成構造を維持する為の必要コストとなっているのであろう。と私は考えています。

これまで述べてきた文脈を踏まえつつ、今の日本企業や国内事業者にとって最大の関心事は何でしょうか? それは少子高齢社会・人口減少社会によって縮小し続けている国内市場、若年層及び青年層の貧困化によって縮小し続けている国内市場、 という「どんどん縮小し続ける限られたパイ」から、如何にして少しでもより多くの顧客を経常的に獲得できるか?という事です。

その為に、少年期からの見込み顧客の囲い込み策や、潜在的なファン化が多数の企業によって行われています。 しかし、こうした「限られたパイの奪い合い」という活動は、利己主義や経済保守主義と同様、日増しに国内企業が狭窄的な視野に陥りつつある。という事を示しています。 勿論、企業経営者の企図としては、ものを言う株主を充足させ、傘下構造を維持する為に採用している経済合理的な行動である。とも言えます。

しかしながら、私が真に訴えたい事は、「日本の個々人が経済合理的な行動を取り、そして個々の企業が経済合理的な行動を取る。これは日本社会全体や日本経済全体が、合理的な行動を取るという事にはならない。」という事です。

ミクロ単位の個人や企業の個々よる経済合理的な行動の積み重ねが行く末は、「中間層維持」や「底上げ」とは完全に真反対で、全体のパイ拡大とは対極を為す結果を招くでしょう。

ミクロ単位よる経済合理的な行動の末路は、日本という社会全体に於ける優勝劣敗拡大・格差拡大・貧困増加・国内市場縮小・国際競争力低下・社会不安といった状況が進展する結果を招き、 畢竟、日本という社会全体や経済全体の衰退を招く事は、火を見るよりも明らかです。


その理由は簡単です。何故なら「みんなが自分の事しか考えない。」からです。特に、「社会的強者・実質的な経済貴族・持てる側に居る者が、自分の事しか考えない。」からです。 これは欧米に於けるノブレス・オブリージュの精神とは対極にある、謂わば「糞食らえの様な精神」である。と私は思います。

私たちが真に考えるべきは、「パイそのものを大きく拡大させる事」です。ここでパイというのは、国内市場規模、中間層の厚み、 中規模事業者や小規模事業者の厚み、海外市場へ進出できる事業者の厚み、世界で戦える競争力ある企業や人財の厚み、といったものです。

常々シンクビッグや全体最適を意識しなければ、ゲーム理論に於ける囚人のジレンマの如く、日本丸という船に乗っている乗組員の誰しもが、最終的には益無く損をするという構造ができ上がって仕舞う訳です。 嘗ては豪華客船だったものが、次第に沈みゆく泥舟へと変わりつつあるという構図です。

それでは、今の日本企業にとって新しい関心事は何でしょうか?という話に論点を戻すと、先述の「限られたパイの奪い合い」の次となる現代日本企業の関心事としては、 海外進出(Overseas Expansion)、オープンイノベーション(Open Innovation)、コーポレートベンチャーキャピタル(社内新規事業・Corporate Venture Capital)、ヘッドハンティング(Head Hunting)、といった経済活動です。

これらを総括して言えば、「未来は僕等の手の中」という言葉を象徴とする様なフロンティアの社内的創出と、 事業ポートフォリオを多様化する試みとによって、長らく主軸であったオールドエコノミー的なビジネスモデルである既存事業が占める比率を減らし、 自社リソースをニューエコノミーの領域へ振ろうとすると同時に、

「新規事業の立ち上げ育成を強力に支援しようとする新規事業開発及び新産業開発の世界的潮流」に乗り遅れまいとするグローバルトレンドへのキャッチアップを目的としたものである。と読み取る事ができます。

但し、日本に於けるグローバルトレンドへのキャッチアップで特徴的な点は、その大半が既に成長成熟を遂げた国内企業がスタートアップを実質的な企業傘下に置くといった形で進められています。 即ち、優れた事業企画や優れた技術等を持つ創業者を一般公募した上で、最終的に傘下子会社を作る様なイメージです。

或いは、地方公共団体が主催しているものの一部は、神戸市と提携している米国の500.coといった、欧米外資によって資本注入が為される可能性がある。という点です。 米TEDやGoogleによるStartupgrindといった外資系インキュベーション支援団体も、国内にドンドン浸透しつつあります。

合理的に考えて、最終的な彼らシードアクセラレーターやビッグベンチャーの戦略は、一般のベンチャーキャピタルと同じく、欧米外資による日本スタートアップへの資本注入と、それによる将来的な巨額ベネフィットの享受が目的でしょう。 嘗て日系資本である孫正義氏のソフトバンクグループが、中国のアリババ社へ先見の明を以って資本注入をして、数年後にビックリする程の大儲けをした構図と同じです。

但し、私は成長成熟を既に遂げている既存企業や欧米外資(以下、プライベート資本と呼ぶ)を批判している訳ではありません。 既に成長成熟を遂げた既存国内企業や欧米外資が立派に存在してくれているお陰で、次々と日本からもスタートアップが将来に花を咲かせられるからです。

言い換えれば、原初資本拠出団体が国内外の何処であるかを問わず、兎にも角も、国内の土壌に新規性や革新性のある先端産業や、 マスボリューム層の雇用を支えられる何らかの成長産業を根付かせて行かなければ、将来の日本は飯の食い扶持を確保できないからです。

しかし、このプライベート資本という存在自体の貢献性と、スタートアップや小規模事業者に於ける、資本の独立性という問題は全く別の話です。 また先述した通り、キャピタルゲインというイグジット時の巨額ベネフィットを目的としたプライベートな資本からは、 高い参入障壁を確立できている様なコアコンピタンス(排他的障壁・唯一性・独占性)に優れた一部のスタートアップへしか、資本注入は為されません。

無論の事、プライベート資本は利益期待値の大きさを求め、同時に損失可能性を強く回避する志向がある為です。端的に言えば、基本的に彼らは何処までも経済合理性追求の徒である。という事です。 故に、大半のスタートアップはプライベート資本による育成対象から、こぼれ落ちて仕舞います。


また仮に、それらの既に成長成熟を遂げた既存企業や、欧米外資から多大なリソースを拠出されれば、スタートアップに於ける経営の独立性が確保され続ける事は容易な事ではないでしょう。 この状況は、本質的にはノブレス・オブリージュの段で先述した様に、プライベート資本の合理性による既存構造の経済保守主義が根底にあります。

勿論、ファミリービジネスを筆頭とする民間企業は、全てがプライベート(私人の)なアセットやリソースによって構成されている訳ですから、 新規事業開発及び新産業開発に於ける資本注入したスタートアップ等に対しては、最終的に彼らの企業傘下(子会社・孫会社・系列会社)に置こう。という圧力が働く事は、至極当然であるとも言えます。

しかし最も重要な問題(社会的課題)は、冒頭で述べた通り、「本当にお金が必要なところへはお金が回らない。」という公益性や社会的経済合理性(think huge)とは掛け離れた状況が、日本国内で常態的に発生し続けているという事です。

もっと具体的な言葉で言い換えれば、「全く以ってリソースに恵まれない個人事業者や小規模事業者やスタートアップが、当初に思いついた企画・プロダクト・サービスが採掘したままの粗鉱や極小シードの段階にありながら、

それでもコツコツと努力して未だ日の目を見ていない小さな事業を、将来の為に維持継続すべき期間に於いて、そうした数多の多種多彩な小さな事業が、維持継続できるだけの資金調達を、経営の独立性を維持したまま実現する事」です。


私が何を言いたいかと言えば、拠出される原始資本に係る所有権の所在についてです。スタートアップに於ける資金調達の方法が、民間銀行からの融資である場合、 その資金は「借入金」として貸借対照表の負債の部に計上され、企業のオーナーシップや独立性は創業者によって保持されますが、

スタートアップに於ける資金調達の方法がベンチャーキャピタル・コーポレートベンチャーキャピタル(社内新規事業)(CVC)・エンジェル・シードアクセラレーター等による株式への出資である場合、 その資金は「資本金」として貸借対照表の資本の部に計上され、企業のオーナーシップや独立性は保有株式数という割合的にしか創業者によって保持されません。

私は、個人事業者・スタートアップ・小規模事業者といった初期のステージにある事業者が、シードから芽を出し土に太い根を張るまでの期間、 はたまた営業年数の長い中小企業であれば、接ぎ木した台木と穂木とが十分に固着するまでの期間、或いは、分離させた挿し木が土に発根するまでの期間、

こうした個人事業者・スタートアップ・小規模事業者に於けるインキュベーティブな期間に於いては、創業者が企業のオーナーシップを保持できている事が、最も望ましい。
と、私は考えています。

その理由は、多種多彩な色んな事が自由にできる様になるからです。別の言い方をすれば、「可及的早期の事業収益化を果たし、企業価値を最大限向上させ、IPOやM&Aや被バイアウトを実現せよ!」 といった資金注入を為したベンチャーキャピタル・社内新規事業(CVC)・エンジェル・シードアクセラレーター等で構成される、大株主からの強い打算的な要請に、口出しをされる事がなくなるからです。

はたまた社内新規事業(CVC)である大株主が「ウチの主力オールドビジネスとのシナジー効果が生まれるビジネスを創出せよ!」といった大株主からの強い要請に口出しをされる事もなくなるからです。

もし仮に、自己資金による事業運営が可能になれば、それによって経営の独立性が維持され、時間を掛けた研究開発や独特な人材育成ができる様になると考えます。 つまり、より深い多様性が個人事業者・スタートアップ・小規模事業者に生まれると考えるからです。

しかし一方で、勿論デメリットもあります。 不採算事業への参入、不採算事業の延命、ロスカットの遅延、要するに、創業者が無駄な事やる様になる。という傾向は必然的に高まるでしょう。

しかし、これは創業者や創業メンバーの自発的な意志と理性の力、即ち自己管理能力を高めるという事にも繋がると思います。 そうして個人事業者・スタートアップ・小規模事業者といった初期のステージに於ける創業者や創業メンバーが、 どんな企画・どんな技術・どんなプロダクト・どんなサービス・どんなコンテンツ、そもそもどんなビジネスモデルを構築するかについて、

自分のお金を使って、色々な人と出会い、色々な本を読み、色々な国内外のウェブを漁り、色々な土地へ行き、興味関心領域を広げ、思索に耽り知性を高め、 突飛な事もやり、色々な事に挑戦をして、色々な失敗もやり、経験値を積んで、創業者や創業メンバーが時間を掛けて成長して行く。という事が大切だ
と私は考えます。



そして、こうした色々な体験を自由にしながら成長して行く創業者や創業メンバーが、日本全国の津々浦々に草の根レベルから、ドンドンと出てくる様な構造を創出する事が、 将来の日本が夢と希望を持てる明るい社会になって行く為に、余りにも重要な事だと考えます。

そして、こうした日本経済の新しい構造を創出できれば、 多種多彩なユニークでロングテール的で風変わりな面白い事業や面白いビジネスモデルが、百花繚乱に咲き乱れて行くだろうと考えます。

何故ならば、今をときめくDell・Adobe・Apple・Cisco・Google・Amazon・Facebook・Twitter・Uber・Airbnb・Snapchat 等にせよ、 元々は多種多彩なユニークでロングテール的で、創業期に世間から一瞥されていた当初は、 風変わりの面白い事業や面白いビジネスモデルといった、草の根にある多様性の中から自然発生的に生まれ出て来た企業だからです。

この事は、起源が国営国策等で無い限り、今は有名大手となっている日本の企業群も、これと同じ様に草の根レベルから自然発生して来た訳です。その当時の経済生態系(Economic Ecosystem)の中で、 他の人や他の事業者が習慣的にやっていないニッチな役務や物品の必要性に気付き、その安定的な供給方法を考え出し、細かくキャッシュポイントを設定しつつ、国内外の人々に提供して来た訳です。

つまり、日本に於ける個人事業者・スタートアップ・小規模事業者が提供する企画・技術・プロダクト・サービス・コンテンツが、創意工夫に富みオリジナリティや創造性の溢れるものを実現しようとすれば、 個々の事業者に於いて、使途が限定されていない「自由に使えるお金」を増やす必要がある!と考えます。

何故ならば「自由に使えるお金」があれば、創業者や創業メンバーは色々な「体験」を積む事ができるからです。
「体験」の総量で言えば、インターネットやスマホやコンピューターが無く、何事にも想像を絶する程のリアルな苦労をしまくっていた昔の人の方が、現代人よりも上回っていたのではないか?とも思えます。 そして培った「体験」の総量と「体験」に基づいた思考活動が、ビジネスモデルの独創性や効率性に反映されて行く。と考えます。

何故「体験」が重要であるかと言えば、これからの世界経済の潮流は、過去の時代に比べより一層、今まで誰も考えなかった様な独特の面白い事を考えて、 細かくキャッシュポイントを設定する事により面白い事をマネタイズし、それによって、より多くの人々を楽しませ、より多くの人々の不便や非効率を解消させ、より多くの人々をハッピーにできた企業が生き残って行くからです。

そして「今まで誰も考えなかった様な独特の面白い事」は、グローバルに散在している世界人口76億人(2017年)によってシェアされ、 76億人の経済的な効用が満たされる。という構造になっています。
既にGoogleやFacebookやAmazonが、その模範であるかの如く実現しています。 この構造ゆえに、76億人のグローバル市場を席巻した状況に於ける企業の収益は、計り知れないほど大きな金額になる。という訳です。

さて、こうした古い仕事観を覆す様な面白い仕事や面白いビジネスモデルが増え、基本的な読み書きさえできて、頭を使って考える事ができるならば、 個人(草の根レベル)の誰しもが、世界的なグローバル市場に参入でき競争できる。そして超ビッグチャンスを掴めるかもしれない!

という恵まれた時代
にありながら、 競争優位性の源泉を頭脳によって保有し、或いは保有できるポテンシャルのある沢山の個々人が、生憎まとまった原始資本と結び付けていない事によって、 この資本蓄積(お金)の問題がボトルネックとなって、事業を成長させ雇用を増やし、事業を社会の公器として発展させる事ができない。という鬱屈とした状況に日本は相変わらず置かれていると言えます。

クラウドファンディング・ベンチャーキャピタル、社内新規事業(CVC)・一部エンジェル等によるリソース支援によって奮闘が為されているとは言え、 世界的に見れば圧倒的に後塵を拝しています。日本国内にいる限り、わざわざ英語を読んで諸外国の事情を見聞きする必要が無い為、英語圏や多言語圏のウェブサイトを読ま無いだけ。知ら無いだけ気付か無いだけなのです。

圧倒的に後塵を拝する理由は、未だ日本には、寄らば大樹の陰・高学歴大企業志向・資金調達難・型枠規範・安定志向・若年青年の草食化・創造的教育の欠如・画一的教育の温存 ・高スキル移民の低受容・限定的英語力・周囲比較価値基準・限られた大企業や公務員へのイスや漸減的縮小国内市場というパイの奪い合いを志向する視野狭窄・利己主義の蔓延・経済保守主義の蔓延、といった制度や観念が、 社会や人々の内部に根強く存在しているからです。

そしてその一方、元々フロンティア開拓精神があり、創造力を重視した教育を受け、ノブレス・オブリージュの精神があり、 潤沢に資金注入ができる公私の団体が数多く存在し、世界から高スキル移民やトップ留学生を大量に受け入れていて、若年や青年がビジネスチャンス獲得の野心に燃えている。

といった様な境遇にある諸外国が、日本のライバルとして増えて行った場合、これからの日本に国際経済競争の中で生き残って行けるという勝算はあるのでしょうか? しかも、「新規事業の立ち上げ育成を強力に支援しようとする新規事業開発及び新産業開発の世界的潮流」の中で、スタートアップや小規模事業者を政官軍産学が、バックアップしてくれる国々の数は確実に増えています。

それによって有望企業の誘致合戦をしています。
重要な事なので繰り返しますが、我らが日本よりも遥かに、「厳しい世界競争に負けまいとして必死で躍起になっている、 政官軍産学が渾然一体となって、強力に産業政策を推し進めている世界の国々や地域」のボリュームは、日増しに多くなっているという訳です。

こうした日本と世界各国の経済競争が進展している結果として、「日本国内経済の活性化策は常に乏しい。」 「本当にお金が必要なところへはお金が回らない。」「将来の世界経済をリードする様なビッグベンチャーは、常に欧米から排出される。」 「未踏フロンティア市場を創造し、それをガツガツと開拓し独占的に領有して行くのは、常に欧米や中国やロシアやインドやイスラエルといった国々の企業である。」

「日本は常に世界経済の後塵を拝する。」 そしてこの結果、日本という国家の国際経済力は相対的に低下し続け、日本国内に於いて格差が拡大し貧困が増加し続ける。という構造ができ上がりつつあるという訳です。となると、本当に本当に今のままで良いのでしょうか?

諸外国の若いリーダーたちが、サイバー領域やフィジカル領域といった、思い思いの場所に錦の御旗を掲げ、そこで今まで誰も思いも付かなかった様な未踏フロンティアを創造し、 その市場をガツガツと開拓し独占的に占領し、我が物顔で市場を牛耳って行く姿を、私たち日本人の多くの若年や青年ときたら、お金も無い、リスクを取る勇気も無い、柵檻観念に縛られてユニークなアイデアも出ない。ORZ。

そんなサラリーマンや公務員やフリーターや学生やニートとして、 「諸外国の起業家は、まだ若いのに知力も行動力も勇気もあって凄いよなー。」と言って、見す見す指を咥えて眺め続けている。 という余りにも馬鹿馬鹿しいとも言える構図。これが日本の現状です。
こんな事が起こっている日本の現状は、余りにも悲しい事だと思いませんか?

今の日本は、「若者が将来の人生に希望を持てない国」「若者が所得の少なさを理由として結婚をしない国」 「夢も希望も無い国(ディストピア)」へと、徐々に徐々にサイレントに近づいて行っている様に私は感じています。 釜の湯温が少しづつ少しづつ上がっているので、湯に浸かっているカエル(私たち市民)は気付かないのです。 こんな状況は日本列島に生まれてきた者として、余りにも悲しい事ではないでしょうか?

こんな平成時代の無様な状況を、日本は世界に誇れると言えますか?にも関わらず、こうした状況にあって、 日本ホルホル番組や日本ホルホルコンテンツを見て、悦に入っておられる方々は、現実逃避か視野狭窄か御花畑かのいずれかであって、 危機的状況に置かれている日本への認識に於ける、無意識的な観念バイアス形成による、客観的な現実認識の歪曲と操作に他なりません。

成長戦略研究所は、事業者の成長と個人の成長を応援します。何故ならば、事業者の成長と個人の成長の両輪が存在してこそ初めて、 その国の社会や経済が発展しているという事が言えるのではないか?と私は考えるからです。 この理由は東南アジア・アフリカ・南米といった途上国や後進国を考えてみてください。

途上国や後進国では事業者の経済成長が不十分で、 日本よりも零細な事業者が大半を占めます。お金や地位や知性や主要インフラといったリソースが、経済社会の上層ばかりに滞っている為、 途上国や後進国に於いては、大多数の人々が経済力を有しておらず、

十分な教育や書物は得られず、庶民は知性を発達させる事が難しく、それ故、 公的なリソースを使い庶民を自活させ、彼らの事業を拡大させる事も難しく、そうした貧富の差が大きな国々に住む人々の人心は、この現代にあっても前近代的で貧しい状態のままです。


しかも、その途上国や後進国の社会構造や経済構造には、古い時代からの特権や悪習や旧弊や因襲が数多く存在し(ex.カースト制度・無相続税・纏足・割礼)、 その旧態依然とした経済社会構造がある為に、理不尽にあえぎ苦しまなければならない人々が、今現在に於いてでさえ膨大に存在しています。

私が何故こういう事を断言できるかと言えば、FacebookやSkypeといったインターネットのツールを使っていると、先進国や途上国や後進国を含む世界中に沢山のFriendsができて、 彼らとビジネスの取引をしたり、日常世間話といったコミュニケーションをして来た結果、身を以て判った事だからです。

諺で表現すれば、「貧乏暇なし」「貧すれば鈍する」「窮すれば濫す」「鈍すりゃ貧する」「衣食足りて礼節を知る。」「衣食足りて礼節を知る。」等という言葉があり、昔々の先人が既に悟っていた事です。

当たり前かもしれませんが、経済構造という川の流れの下の辺りに於いては、十分にお金が行き届いていない故に、物質だけでなく、人心までもが貧しくなるのだと思います。 その理由は、川の流れの下の辺りに於いては、「限られたパイの奪い合いゲーム」が常に行われているからです。お金が無ければ、「心」を満たそうとする意志は少なくなるんです。

お金が無ければ必然的に時間が無くなり、沢山の書物を読んでそこからエッセンスを吸収し、自分が採る経済行動の効率性や合理性を高めたり、置かれた不利なゲームをハックしたり、 公に向かって声を上げ意見を述べたり、といった知性を高めようとする意志も、本当に少なくなるんです。


何故ならば、こうした状況や境遇の渦中に置かれている個々人に於いては、 その全ての方面に於いて余裕や余剰が存在し無いからです。だからこそ私は、スタートアップの創業者や創業メンバーといった個々人に於いて、余裕や余剰を使った個人体験の総量や多様性が余りにも大切である。と先述しました。

「遍くものは皆師」そして「自分は自分の先生だ」と思っていれば、体験が多ければ多いほど人間は学べる生き物だからです。 勿論、余裕や余剰が大切であるという事は、創業者や創業メンバーに限った話ではなく、生けとし生ける全ての人にとって大切な事だと思います。

卑近な話ですが、私とて過去何度かあったドン底の逆境という渦中に居た時、即ち外部から大きなダメージを受けて、 エコモード・セーブモードで生活や仕事を回せるようにしていた時、そして取り分け、 「当時の私を奴隷の様に扱い成果を生ませ、そのレベニューシェアの大半を上前として搾取する人間」、 「力が奪われていた当時の私を舐め腐り、トカゲの尻尾という役を与えて利用する人間」、と命懸けで闘っていた時は、

芥川龍之介の羅生門に於ける老婆が採っていた行動(死人の髪を引き抜きカツラとして売る)を引き合いに出し、 私は「凌ぎの為の悪は已む無し」と思っていました。何故ならば、それをしなければ、当時の自分が闘っていた相手に、食われて死んで仕舞うからです。こんな状況でも「善を為せ」と、紋切り型を言えますか?

私の経験則からしても、過酷な環境に於ける弱肉強食と適者生存という至上命題の中では、善悪や道徳を最優先にする事はできませんでした。 こうした構図は畢竟、経済が貧しくなればなるほど社会は荒廃し、人心は貧しくなり、遍く個人や企業の全てがその生存を最優先で追求し、 誰も彼もが「凌ぎの為の悪は已む無し」となって、

利己的な行動を追求し、相対的に弱い者を踏み台にしたり、 相対的に弱い者から搾取したり、する事が当たり前の様な経済社会に、もしこの日本が成ったとしたら、 その状況は阿鼻叫喚の地獄絵図の如く、どれほど暮らし難い世の中になる事でしょう?

今の日本が、世界サミットに招かれる先進国である。と、単に現時点に於いて看做されているからと言って、 江戸・明治・大正・昭和の時代に活躍してくれた先人先達が築いてくれた遺産や貯金に、これからも胡座をかいたままで、本当に本当に良いのでしょうか?

私たち一人一人は、何時までも何時までも、利己化・矮小化・隷属化された、日和見や他人事や事勿れや御満悦や草食系や御花畑や小市民といった、 今ある文明文化の恩恵に対し、心から感謝する事さえしない「お客様(guest)」や「愛玩動物(pet)」のままで、在り続けて良いのでしょうか?

現代のヤマト國が築いてきた経済的な威光とて、いったん諸外国との相対的なパワーバランスで転げ落ちて仕舞えば、そうした諸外国や国際社会は、 今までとは掌を返した様にナメ腐った様な態度で、弱い者には恰も裏社会流を容認するかの如く「オラオラ。アァン?ゴルァ。」と言って、出て来る可能性だって大いに有り得る訳です。


だからこそ成長戦略研究所は、小規模事業者に於ける資金調達の実現とその経済的成長(事業拡大)、個人の人間的成長(知力及び体力に於ける人間開発)、 という私たちの経済社会が成長する為の両輪となる要素(事業者の成長・個人の成長)を、力強く支援できる様なビジネスモデルを作りたい。と考えています。



「先ず隗より始めよ」という事で、 これから成長戦略研究所が実施しようとするビジネスモデルの具体的内容についてですが、それは小規模事業者が資金調達を実現する為にオルタナティブな方途を作り出す事です。 その為に金融デリバティブ取引で既に大成功を果たしている天才トレーダー氏の独創的知性によって築かれた大いなる成果を活用します。

もっと具体的に言えば、天才トレーダー氏が考案した外国為替市場や株式市場といった金融市場に於ける取引戦略を活用すれば、これは実質的に金融市場に於ける「聖杯」である為、 小規模事業者やスタートアップが保有している程度の小さな原資に対しさえ、その何倍も多くの収益を生み続ける事ができる。という訳です。

そして原資に対し何倍も多く生み続けられる収益を以って、現状では小口事業資金調達の市場から不運にも、 こぼれ落ちている零細事業者・小規模事業者・弱小スタートアップのファイナンスを支援し続ける。というビジネスモデルです。

一言で言えば、成長戦略研究所は金融市場に於ける常勝トレーダー育成事業を構築し、将来的な収益性が馬鹿デカい公益的営利事業を、これから手掛けて行くぞ!という事です。 先ず以って、この公益的営利事業の実現が、今私が考えている「何の為に今何をするべきなのか?」「自分が為そうと決めた事を、如何にして本気で実現させるか?」という問いに対する答え(メインテーマ)です。

そういう訳で、日本の社会や経済、そして迫り来る厳しい将来の状況を、本気で少しでも良くしようと思って、真剣な気持ちで意見を公に述べたり、 日々の事業活動をしていれば、「人様がどう思うか?」といった自分事の視座なんて、全く問題にはならない。という事です。

笑われようが、疑われようが、貶されようが、謗られようが、無視されようが、叩かれようが、疎まれようが、妬まれようが、 そんな些事瑣末は「将来日本の国家的な浮き沈み」という超絶大なる問題(天下の一大事)と比べれば、1000%どうでも良い事ですよね?

だから、私たちは物事の重要性や緊急性や本質性や関係性に対しては、常にその構図構造を頭の中に思い浮かべ、 「そもそもこれはどういう事なのか?(根源的発端)」且つ、「実質的にこれはどういう事なのか?(実質的意味)」を、よくよく考えなければならないのです。


これから成長戦略研究所が打ち立てようとする優れたビジネスモデルは、日本国内で活動されておられる個人投資家やスタートアップや一般事業者に於ける、加速度的な資本成長及び事業成長に多大に寄与貢献する事ができます。

何故それ断言できるかと言えば、私自身が個人事業として外国為替取引戦略探索家を、過去十年ほど営んで参った結果、 僅か3万円を1000億円以上にしたストラテジーを考案した天才トレーダー氏を発掘し、私と彼とは提携関係を構築したからです。

大成功した方と同じストラテジーを使える為、もはや成長戦略研究所の公益的営利事業が成功するという事は出来レースになっているのです。 だからこそ、日本社会と日本経済の将来に対し、私が為す公益的営利事業が少しでも貢献できればと思い、 私は私自身の写真や個人情報をリスクを取ってまで、本ウェブサイトで公開しているという訳です。

この公益的営利事業が成功し、将来的にとても沢山の方々から感謝感激をされるであろう。という事が、合理性を以って私には分かっていますので、その意味で私は何も怖れてはいないのです。


「何の為に今何をするべきなのか?」「自分が為そうと決めた事を如何にして本気で実現させるか?」という命題について、自分自身が為そうと決めた目的を実現する為ならば、極端な話、死ぬ事すら怖れてはいません。

人生が四度詰み、ドン底の逆境から這い上がるという修羅場を何度も掻い潜った人間には、その位の覚悟はあって当然でしょう。 生きるか或いは死ぬかという位の気概を持っていなけば、修羅場をくぐり抜けてドン底の逆境から這い上がる事はできないのです。 我が命が惜しいなんて思っていません。

でも、今すぐ早期に私が死んだ場合、私の理想や目的や野望は実現できません。志半ばのまま犬死にです。 故に、私は何時でも死ねる覚悟がありますが、既に理想や目的や野望を実現させられる算段が付いている状況で、 そんなしょ~もない死に方をしたいと思っていません。

寧ろ、何が有っても能う限りのサバイバルをして、恥やプライドなんか投げ捨てて、どのみち先々で訪れるであろう修羅場を掻い潜ってでも、死ぬる時点までは必死になって生き抜きたい。と考えています。


この世に生命が棲んでいる生物界のルールというものは、もし自らの死を望まないのであれば、 危機感を持って最後まで弱肉強食と適者生存という自然原理が支配する世界を、必死になって生き残る以外の選択肢しか与えられていないのだ。と私は考えます。

地球では人間界だけ例外的に異常なだけで、人間界を除いた遍く生物界に於いては、この原則が真実である。と私は考えます。 それを西洋近代が構築した例えば、国家・司法・立法・行政・政党・法律・制度・人権・自由・平等・保障といった「二次的な原理」によって、 安楽で甘美で緩慢なフェイク(虚構)やイリュージョン(錯覚・幻想)で、単に目を眩まされているに過ぎない。という事です。

故に人間界であっても、実質的には弱肉強食と適者生存とが真実なのである。という事にイチ早く気付いた人の勝ちだ。と思います。 その事にイチ早く気付いた企業や社会や民族や国家の勝ちだ。と思います。企業で言うなれば、孫正義氏率いるソフトバンクの様な在り方です。民族で言うなれば、トーラとタルムードで育つユダヤの様な在り方です。

逆に言えば、惰性や日和見や草食や逃避や隠遁や厭世や爛熟やマンネリや軟弱や他人事や矮小や卑屈や柵檻になれば、 生き馬の目を抜く自由競争に於いては、必ず敗北を喫するのだ。絶対的に負けるのだ。と断言します。

だかこそ、日本にいるみんなが弱肉強食と適者生存で成り立っている厳しい世界の中で、 それぞれがそれぞれに置かれた産業市場に於けるサバイバル競争に勝ち抜いて行って欲しい。と思って、こうして本気で真剣な文章を日本語で書いた。 という訳です。

無論、英語圏や他言語圏に住んでいる諸外国には読ませたくありません。日本人が自己像を投影する水準よりも、遥かにドス黒く汚い性悪説が世界標準なのである。 という事実を踏まえれば、諸外国は常に日本の寝首を掻こうとして虎視眈々と狙っている訳ですから。

さて、先述した渋沢栄一が唱えた「道徳経済合一説」を私なりに現代的解釈をすれば、 「数多の事業者が長期的に公益的な活動を、維持継続する事を目的とするならば、彼ら事業者が適切な私利営利を、満たし続ける必要がある。」と私は考えます。

それ故、成長戦略研究所は日本国内におられる事業者(あなた)の為に活躍してくれる、 十分なる収益の確保を実現してくれる金融トレーダーを量産する。という公益的営利事業の立ち上げを一歩一歩、 2018年の当初から着手させて頂きます事を、この場でお知らせ致します。

但し、私の実質は個人のリサーチャーであり、諸処のリソースを持てる者では御座いませんので、仕事が一馬力である限り、立ち上げの進捗速度には限界が御座います。 とは言っても、成長戦略研究所が既に提携している天才トレーダー氏が考案したストラテジーという本事業に於ける競争優位性の「核」を確保した事によって、このビジネスモデルの成功は、99%約束されています。

兎に角、私が2017年に発掘をし、頼みに頼み込んで訪問を許可して貰い、出会った天才トレーダー氏の存在に、私たちは心から感謝しなければなりません。 あらゆる金融市場で機能する「聖杯」を伝授してくれる様な稀有な存在は、

この私利私欲の蠢く世界には、全くと言って良いほど存在しないのですから。 FX戦略に専門特化したリサーチャーを生業として来た私は、この事(玉寡少石多寡・性悪説者数>性善説者数)を、身を以て痛い程に認識しています。


本ビジネスモデルの仕組みは、天才トレーダー氏が考案したストラテジーを習得した勝ち組トレーダーを国内に量産し、 彼ら勝ち組トレーダーと同じポジションを国内事業者(あなた)の外為口座や株式口座で取らせ、ハンズフリー型で高い収益を上げ、 多くの国内事業者を潤そうとするものです。

儲け潤った収益については、先述した通り、色々な体験をする事に活用して頂き、 創業者様や創業メンバー様が色々な体験を為してドンドン成長して頂き、事業経営の拡大や飛躍に有効に用いて頂ければ幸いである。と考えております。

もしですよ?もし仮に、寄らば大樹の陰・高学歴大企業志向・資金調達難・型枠規範・安定志向・若年青年の草食化・創造的教育の欠如・画一的教育の温存 ・高スキル移民の低受容・限定的英語力・周囲比較価値基準・

限られた大企業や公務員へのイスや漸減的縮小国内市場というパイの奪い合いを志向する視野狭窄・利己主義の蔓延・経済保守主義の蔓延、といった制度や観念を、 日本の個人や企業や政府が、日本を繁栄させる為、方法的にでも取っ払って仕舞ったとしたら、どれだけ明るい将来が日本に約束されている事でしょう?

要するに、私が構想している事は、世界各国の金融市場から莫大な富を生み出す事のできる公益的営利事業を立ち上げるという至極真っ当な手段を用いる事で、 将来日本の国力を弱体化して仕舞うキーファクターとして、現在日本の津々浦々に頑然として存在している旧態依然とした観念や悪習や旧弊や因襲や古い価値観の取っ払いを実現する事です。

その状況というのは即ち、日本の個人や企業や政府が、チャレンジ奨励・チャレンジした結果としての失敗受容と再チャンレンジ奨励・若者が錦の御旗を掲げたスタートアップを大挙して起業、海外展開企業増加・個々人に於ける絶対的価値基準・ シンクビッグによるパイ自体の拡張拡大・日本人個々の自発的陶冶研鑽志向・器量の大きい傑人傑物志向・

ジャンク消費財に対する自己管理と自己防衛・エゴイズムと拝金主義に対する白眼視・想像力重視・創造性重視・独創性重視・ シンクスモールに対する忌避・経済保守主義に対する白眼視・ノブレスオブリージュ定着、といった思潮風潮へ国内が転換したとしたら、 どれだけ明るい将来が日本の経済社会に約束されている事でしょう?端的に言えば、シンクヒュージの実現という事です。


勿論こんな事は、現時点では夢物語かもしれませんが、私は可能性を頭の中でイメージする事は余りにも大切な事であると考えています。 何故ならば、人類の歴史というものは、先見性のある個人が想像した強烈なるイメージによって、現実は何度も覆されて来たからです。

クリストファー・コロンブスが抱いたイメージ。ガリレオ・ガリレイが抱いたイメージ。マルティン・ルターが抱いたイメージ。ジャン=ジャック・ルソーが抱いたイメージ。 カール・マルクスが抱いたイメージ。佐久間象山が抱いたイメージ。吉田松陰が抱いたイメージ。陳独秀が抱いたイメージ。キング牧師が抱いたイメージ。マハトマ・ガンジーが抱いたイメージ。

実現可能な望ましい未来を思い浮かべ、そのありありとしたイメージを抱く力。 そして、そのイメージを合理性を以って現実へと落とし込む実行力。この二つの力が私たち人間に備わっている限り、どんな時代であっても私たちの未来は明るいのです。

だから私たちは実現可能な望ましい未来を強くイメージし、これから少しづつ少しづつでも社会や経済や産業の構図構造を、将来の日本が生き残って行けるよう変えて行かなければならないのです。

一日一日という積み重ねの継続が非常に重要なのです。「ローマは一日にして成らず」「千里の道も一歩から」と言う様に、 私たち人間はその各自が、自分自身でできる範囲のコツコツとした営為を、少しづつ少しづつ積み重ねるという事しかできないからです。
生物細胞も観念構造も社会構造も経済構造も、たった一日では殆ど変わらないのです。せいぜい1日1%位が関の山です。

でも、その1日1%の重要性を軽く見たり侮ったりしはいけないのです。何故ならば、「塵も積もれば山となる」と諺にある通り、私たちにとっては、1日1%が全てなのですから。それで良いんです。それで十分なんです。

そして重要な事は、コツコツとした営為の積み重ねによって、私たちの状態が上を向いているか?或いは下を向いているか?という微分的な意味で言う「傾斜角度」さえ客観性を以って把握していれば、将来の状態は概ね判るのです。

だからこそ、今の傾斜角度・今の在り方・今の微細な変化を把握し、それがポジティブなものならば絶対に維持継続する。その行動や実践を死守する。という事が余りにも重要なのです。
私が行って来たライフハックの本質を突き詰めればこれだけです。故に、基本的には、私たちは亀の歩みで良いのです。

亀の遅さに匙を投げる人は、現実の諸構造を変える事はできません。 しかし、兎になれる好機とあらば機を逃すべきではない。何故ならば、先述した「商」「蓄財」「先手必勝」の段で述べた通り、競争に於いては先行性、及び機会損失こそ致命的な敗因となるのだから。と私は考えます、

この事を踏まえ、1日1%の変化をより効率的なものに変えようとして、成長戦略研究所が実施するビジネスモデルは、 実質的な富の再分配機能を担った金融市場に於いて勝ちまくる常勝トレーダー育成事業を、日本国内の津々浦々に量産するという公益的営利事業の創造です。 本ビジネスモデルは個人投資家様、及び国内事業者様に対する経済的なハックです。

まずは本ビジネスモデルを用い、日本国内におられる個人投資家様、及び事業者様方に潤って頂きます。将来的には成長戦略研究所及び弊社パートナー様方が、 世界の金融市場から日本国内へ富を流入させ続けられる様なビッグな存在になる事を目指しています。

本ビジネスモデルから得られる潤沢なる安定収益を以って、弊社パートナー様となって頂いた事業者様のファイナンスを健全化、或いは、潤沢なる余剰資金を形成し、 この収益を以って、一般管理費や研究開発費や設備投資といった諸処の既存事業経費、及び新規事業投資へと充てる事により、事業者様の経済的な拡大成長を実現させる戦略のご提案を致します。

そして、潤った資金の内の何割かを、実体ある国内リアルビジネスの立ち上げや、国内リアルビジネスを立ち上げようとしている人物へ、自由裁量で有効に事業投資として出資をして頂ければ、 弊社パートナー様は国内リアルビジネスの創業者やオーナーになる事ができます。


成長戦略研究所はこの新しい潮流を築く着火剤となり、国内の経済産業を活性化しようと努めて参ります。 ひいては本ビジネスモデルが、日本の将来を少しでも明るいものにする事ができれば、この上ありません。

2018年1月30日
株式会社成長戦略研究所 代表取締役 小橋健一

ポートフォリオ

成長戦略研究所が本ウェブサイトを通じて公に伝えている全ての情報について、 「嘘を申し上げている訳では無い。」「学びもせずに申し上げている訳では無い。」という事を、手っ取り早く"証す"意味で、 私自身についての各種エビデンスを、予め当ウェブサイトに掲載させて頂きます。

プロファイル

金融市場取引戦略

Expert 12 years

新規事業市場創出

Ideaman 12 years

探索技術調査技術

Expert 17 years

ライフハック

Advanced 11 years

  • Founder : Kobashi Kenichi
  • Nationality : Japan
  • Date Of Bifrth : 9th Dec 1978
  • Bifrth Place : Okayama
  • Blood Type : O+
  • Hight : 174 cm
  • Weight : 62 kg
  • Occupation : Web Researcher, Life Hacker, Strategic Dreamer
  • Working Experience : 17 Years
  • Creed : Functionalism, Enlightenment, Existentialism, Pragmatism

株式会社成長戦略研究所
Founder
2017 -
日本国内に於ける個人投資家・事業経営者・企業を対象とするB2Bプロジェクトの立ち上げ(資本的成長)、及び、アスリート・ダイエッター・アンチエンジング実践者・アンチイルネス実践者を対象とするフィジカルハックのコンサルティング(身体的成長)、及び、知識学習者を対象とする学習効率化マシンの販売や知性向上コンサルティング(知性的成長)、等を目的として設立。それらの事業運営を行う。
C and G Technologies Inc
Founder
2016 -
プライベートキャピタルを扱う外国為替証拠金取引マネージド・アカウント事業の立ち上げを目的とし、主な対外的事業契約主体としてセーシェル共和国(Republic of Seychelles)法人を設立。その事業運営を行う。
Gold Pegasus Proprietary Trading
Co-Founder
2013 - 2016
プライベートキャピタルを扱う自己勘定型の金融取引事業の立ち上げを目的とし、イギリス領ヴァージン諸島(British Virgin Island)法人を設立。その事業運営チームの創業メンバーとしてに参画。
Self Employed
Freelancer
2007 - 2013
外国為替証拠金取引に於けるストラテジー研究探索、オリジナル学習効率化マシン研究開発、オリジナルフィジカルハック研究実践検証、高等学校国語科教員免許単位取得、といった職務や営為に従事。
Tsuyama College
Financial Staff
2004 - 2007
岡山県津山市にある独立行政法人津山工業高等専門学校会計課及び総務課に於いて経理職員として現金出納業務・伝票仕訳業務・内部監査業務・月次決算業務といった職務に従事。
Okayama University
Accounting Staff
2003 - 2004
岡山県岡山市にある国立大学法人岡山大学経理課に於いて経理職員として物品購買業務・伝票仕訳業務・保守契約業務といった職務に従事。
Shinshu University
Bachelor of Arts
1997 - 2001
ギリシャ哲学、実存哲学、ドイツ観念論、等の西洋哲学を学ぶ。卒業論文は、現象学を創始したEdmund Gustav Albrecht Husserl (1859 – 1938)の『ヨーロッパ諸科学の危機と超越論的現象学』についての私的考察。

オススメ楽曲



目的へと邁進する為に、これまで私が聴いて前へ進んで来たオススメ音楽の特設ページをご用意しました。上記「▶」ボタンをクリックしますと、独断と偏見で選曲したプレイリストの楽曲が流れます。是非ご視聴ください!



代表メッセージのくだりでも、この故事成語をくどいほど記述しましたが、 「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」という有名な故事成語が『孫子』に記されていますが、これは即ち、「彼という客観」と「己という主観」とを正しく理解し、 そして、客観を成り立たせている原理原則の方へ主観を近づけようとするならば、戦うと決めた勝負やゲームに於いて負ける事は無い。という教えです。 成長にしても戦略にしても、ある環境や状況に置かれたプレイヤー自らが、客観の側へ近づこうと意識して変わって行こうとしなければ、全く成り立ちはしません。故に、この故事成語は生き残りを目指す万人にとって肝銘に値する言葉である。と、私は考えます。

彼を知るという事は、自らが勝負する事を決めた領域に於いて、正しく「外界」や「環境」や「競争対戦相手」や「参入領域」や「ゲームのルールや仕組み」や「相手の立場や視座」を把握し、その本質を深く理解するという事です。 己を知るという事は、正しく「得手不得手」「得意不得意」「好き嫌い」「思想信条」「価値観」「思考様式」「希望願望」「生活態度」「傾斜傾向」「志向性」「身体」「余命」「立場」「経験」「意思」「時間」「人脈」「諸資源」「武器」「防具」「弱点」 「顕在意識」「潜在意識」「コアコンピタンス」「リソース」「ボトルネック」「PDCAサイクル」「ヒットポイント」といった自分自身の事について、多面的な視点から総合的に深く理解するという事です。

学業やビジネスやスポーツといった現代に於ける競争の大半は、本質的には「自分との戦い」になっています。自分が逃げれば逃げるほど負けへ近づくというゲームです。これを端的に表せば、「克己のゲーム」です。 この理由として、私有財産制や自由権が国民国家によって保障された近代以降の人類世界は、敵を殺し合って領土を奪い合うというゲームではなく、 より高い付加価値を生み出す事で、より沢山の人々が欲する望みを満たし、その需給の契約が成り立っている市場に於ける、領域やポジションを奪い合うというゲームになっているからです。 これを端的に表せば、「想像力のゲーム」です。 この基本的なゲーム構造がある中で、『孫子』の「彼を知る」という事と「己を知る」という事のどちらがより重要になるかと言えば、現代に於ける競争では、「己を知る」という事の方が重要である。と、私は考えます。

何故ならば、己を知り尽くし、己を変革して行かなければ、俯瞰的に或いは複眼的に「彼を知る」という事ができないからです。 自分自身と素直に向き合い、己を知る事ができなければ、敵など到底知る事ができない。という事です。 つまり、「己を知る」という事の方が、「彼を知る」という事に先んじる戦略的アプリオリな関係に行き着く。と言えるからです。 例えば、ビジネスに於いて究極的に己を知り尽くすという事、つまり己の研鑽陶冶や能力開発や傾向熟知や長短熟知を追求して行けば、 巨大市場となり得る様なフロンティアは、己の知性や様々な体験や出会い等によって創造する事ができるからです。そうしたインサイトやエクスペリエンスが、自分だけに固有のものであるならば、そこにライバルは不在です。


また、学業成就・資格取得・ビジネス・スポーツ・ダイエット・アンチエンジング・病気治療といった目的が存在し、 いくつもの克服し到達すべき課題が発生する様なフィールドに於いては、 その最終的な目的を達成しようとする渦中にいる個々人のメンタリティーに於ける、自我の内面に於いて ある時は自信に満ちた「将軍」になると同時に、ある時は先を賢明な「参謀」になると同時に、ある時はひたむきな「兵士」になると同時に、 ある時は優しく癒やす「衛生兵」になる。といった具合に、仮想的な四者やそれ以上の仮想的役割を自分自身が兼ね、時と場合によって、そのいずれかの役割に、なり切る必要がある。徹する必要がある。と、私は考えます。

この四者に於いては、効率性を高めゲームをハックする「参謀」や、安らぎや癒やしを与えようとする「衛生兵」の役割も確かに大切なのですが、 学業やビジネスやスポーツやダイエットといった目的が存在し、いくつもの克服すべき課題や到達すべきマイルストーンが次々と発生する様なフィールドに於いては、 「参謀」や「衛生兵」よりももっと重要な自我の役割は、勇ましく自信に満ちた「将軍」と、ひたむきな「兵士」になり切る事です。 この両者に於いては、視座や目線の高低といった俯瞰性の違いはあれど、「確信」「没入」「集中」といった点では、似通った素養が必要です。



次のマイルストーンまで自分が決めた課題の進捗を達成しようとする場合、日々あるタスク作業の実行や実践を継続し、一定期間その努力を続ける必要があります。 その為には、その努力や仕事が苦にならないよう意識的に且つ無意識的に、その努力や仕事を好きになるようにする工夫が大切です。 仕事や努力といったものは、やればやるほど興味関心が湧き、技能に習熟し、慣性の法則が働き、総合的な面でタスク作業は面白くなります。

しかし、スタート直後の段階に於ける仕事や努力といったものは、興味関心や知識は少なく、技能は未熟で、加速も付いておらず、応援者もおらず、総合的な面でタスク作業は面白くありません。 つまり、タスク作業が面白くない状態から面白い状態になるまで、感覚的な閾値や特異点の様なものがあるという事です。だから、そこまでは何としても孤軍奮闘するしかありません。

そんな感覚的な閾値や特異点に至ってはいない道の序盤に於いて、たとえ誰も自分を応援してくれなかったとしても、たとえ誰も自分が考えた仕事の方法論やそれに基づく努力を全く評価してくれなかったとしても、 それが自分の内心に於いて「正しい」「間違い無い」と思った方法論、自分の内心に於いて「これは自発的にやるべき」と決めたタスク、であるならば、それを最後までやり通さなければ、その遥か先にある目的の達成や実現はありません。 従って、目的へと向かって突き進むという事は、周囲の情報をシャットアウトしてでも、無我夢中で一心不乱になってでも、世に言う「ゾーン」へと没入し、タスクの実践や行動に邁進する必要があります。

そんな時、たとえ方法論が未熟でも、たとえ興味が薄くても、たとえ知識が少なくても、たとえしんどいタスクでも、たとえ人から馬鹿にされても、たとえ人から邪魔されても、 どんな事があっても前へ前へと邁進する「兵士」になり切り、その「兵士」に勇気を与え鼓舞し、心理的な報酬・報奨・褒章といったインセンティブや、強い動機付けを与えられる「将軍」となり切る必要がある。と、私は考えます。 そして「将軍」と「兵士」の役割に徹する事により、日々の努力や仕事に於いて、己が絶え間なく地味に行っている一連の作業群に対し、その確固たる意義・根拠・自信といったものを持ち続けられる様になります。

世の中の個々人の中には、こうした仮想的な役割に徹する事が上手い方もいれば、下手な方もいると思われますが、 意志の強弱というものは、こうした仮想的な「将軍」「参謀」「衛生兵」「兵士」といった役割を兼ね備え、 それに自分がなり切る工夫をする事によって、一般に言われる意志の弱さという問題の克服は可能だと思います。 この様に私たちが目的の達成や実現を望む時、最も重要となる二つの役割。即ち、 強い動機づけを与える「将軍」となり、山積したタスクの実行部隊である「兵士」の役割に徹しようとする時、 最高のツールになるものが素晴らしい楽曲による気持ちの鼓舞やメンタルの高揚です。

しかも、素晴らしい楽曲はその詩文に於ける比喩や象徴や寓話から「本当に大切な事は何か?」という事を教えてくれます。 という事はつまり、聴く者の知性を高めてくれます。もっと簡単な言葉で言えば、よき音楽の詩を暗唱できるくらいになるまで聴き込んで、 自分を励まし続け、気持ちを高め続け、「本当に大切な事は何か?」という事に気付いて行く結果として、知性が高まり高めさせ続け、 自分の目的へと向かって邁進し続ける事が、「将軍」と「兵士」の役割をハックする方法の一つです。


追伸:その卓越した行動力と歌唱力とで敬愛していたYoutuberのクリスティーナ・グリミーさんが、2016年6月のコンサート中、テロの銃弾に倒れて22歳という若さで死んだと聞き、私は涙が止まりませんでした。 3オクターブ+3音という美しい歌声を持つシンガーは、世界の人々に「大切な事は何か?」という事を、エモーショナルに伝えてくれる次世代を担う世界の宝だった。と言えます。

彼女が「Titanium(Cover)」の中で「You shoot me down, but I won't fall, I am titanium.」と歌ってくれた様に、クリスティーナ・グリミーさんは22歳という若さでありながら、 亡くなる以前のその短かった人生に於いてさえ、世界の多くの人々に大切な事を教えてくれた様に感じています。

http://huffingtonpost.jp/2016/06/11/christina-grimmie_n_10415192.html
https://youtube.com/user/zeldaxlove64/
https://christinagrimmiefoundation.org/
https://christinagrimmie.com/

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